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      <title>Salut!-Nana&apos;s Fashion Tribune-</title>
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      <description></description>
      <language>en</language>
      <copyright>Copyright 2008</copyright>
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         <title>寛容さと忍耐のあいだ～Patience～</title>
         <description>スペイン語で「平和」のことを「paz」と言います。発音は「パス」。
南米の国、ボリビアの首都はLa Pazと言うアンデス山脈の奥深く、標高の高いところに位置する「平和」という名の街。
ラテン系の姓としても「Paz」は比較的一般的なものです。
世界的に有名な作家、オクタビオ・パスもそう。「パスさん」は日本語に直すと「平和さん」ということになります。

語源的なつながりがあるかどうかは厳密にはわかりませんが、この名詞と似通った発音をする単語があります、それは；paciencia　パシエンシア。
英語でいうpatienceで、「忍耐」や「寛容」を意味する言葉です。
Patient はどういう時に使うかと言うと、たとえばアイスクリーム屋に長蛇の列が出来て、待ちくたびれた子供がぐずりだしたときに、母親がこんな風に用います；
 “Be patient!”
日本語ですと、
「辛抱なさい！」
に近いでしょうか。あるいは「我慢なさい」。
だけど、スペイン語のpaciencia、英語のpatient ペイシェントに私は、日本語の「辛抱」や「我慢」とは違う、「やさしさ」や、あるいは「ものがなしさ」のようなものさえ感じます。
それは、ボリビアのラ・パスであるインディオの親子の姿を見かけたときからのように思います。

そのラ・パスという街は、首都であるにも関わらず長らく発展から取り残されてきました。
他の南米の多くの国と同様に、この国でも上流階級は肌の白いスペインなどの血をひくいわば「植民者」たち。
征服された肌の黒い「インディオ」たちは依然として社会的・経済的にも虐げられた状況が続いています。
富は、ほぼボリビアの低地に集まります。
最近でこそ、ラ・パスも大分発展してきてはいるようですが、やはり標高３０００メートルを超す街の経済発展には制約がつきまとうのかもしれません。

十年近く前、南米各地を旅しているとき、ボリビアのラ・パスを訪ねました。
崖のように急なアンデスの斜面に張りつくように、石造りの建物が広がる街です。
細い石畳の路地を、街の中心部から離れるように上へ上へとのぼってゆくと、迷路のように入り組んだ低所得者層の住宅街に足を踏み入れていました。
インディオの女性が、行商のための商品がどっさりと入った重そうな麻袋を背負い、右手で３歳くらいの女の子の手を引き、左手には食料品の入ったビニール袋を持ち、ゆっくりと坂道を上って行くのです。

日本では体験することのないような急な坂道。
小さな軽自動車でさえ入ってこられない細さ。
お金のある人は決して住むことのないこのような環境にしか住むことができない人がたくさんいます。
より高く、不便で、肉体的に過酷な場所へと押し上げられてきた結果できた貧民街。
　
女の子も、幼いとはいえ、母親の手伝いをしているのか、自分の体重ほどもありそうな鞄を背負っています。
アンデス・インディオの女性特有の、長い三つ編みに結った髪の毛が地面にこすれるほど前方に身をかがませ、坂道をゆっくりと上ってゆく二人の間に、ほとんど会話はありません。

二人にとって、この旅路はどれほど肉体的に過酷なものかはかり知れません。
たしかなことは、この二人が毎朝毎夕、同じ道を下っては上り、下っては上りを繰り返していること。
標高三千メートル、場所によっては四千メートル、私のような部外者が慣れない体で同じことをすればたちまち高山病で倒れてしまうでしょう。
その証拠に、遠くからではとてもゆっくりに見えた親子の足取りは、想像以上に安定したスピードで歩を進めていて、私はほんの数ブロックを一緒に歩いたあとはすっかり肩があがってしまい、その内二人の姿は坂の上の蜃気楼のように消行きました。

「Patience」 はもともと「傷や痛みを受けた苦しみに静かに耐える」という意味のコトバで、そこから「忍耐」や「寛容」を一般的に意味するようになったようです。
私は、このpatienceというコトバを耳にすると、長くて急な坂道を思い荷物を背負いながら文句ひとつ言わずに上り続けるボリビアのラ・パスで見かけた親子のことを思い出します。
それは、苦しみを運命として受け入れて抗わない姿勢、苦しみを優しく受け入れるような心の状態です。

この、patience について論じた本を読みました。
以前も言及したことのあるＭ．Ｊ．ライアンという作家の『The Power of Patience』という本です。
ライアンさんは、この本のなかで、Patience＜寛容さ＞というものは、元々生まれ持った才能などではなく、アスリートの筋肉のように日々「訓練」し、かつ「鍛える」ことによってこそ初めて身に付くものだと言っています。

たとえば、この文章を読んでいるあなたは、高層ビルのエレベーターを待っているときに、なかなか降りてこないからと何度もボタンを押したことがありますか？
あるいは、エレベーターに乗ったときにコンマ一秒でもいいから早くドアを閉めて目的のフロアに行くために何度も「閉」ボタンを押したことはありませんか？
私はそういう人間でした。
でも、よく考えてみるまでもなく、「閉」ボタンを何回押したとしても、またどれほど強く叩いたとしても、結果はほとんどかわらないでしょう。
この「閉ボタン連打」という動作は、私のなかの「イライラ」つまり「寛容力」・「忍耐力」の欠如の表れ以外の何者でもありません。

一分一秒でも早く目的地に着きたい、一分一秒でも携帯電話がつながらないのは許されない、私たちはそんな「スピード狂」の社会に生きています。
でも、長い行列は、どれだけイライラしても一センチたりと短くなることはありません。むしろ、イライラした分だけ遠回りをしてしまった経験をお持ちの方は多いのではないでしょうか。
焦ってタクシーに飛び乗ったら渋滞につかまった…よくある話しです。

今まで私は、自分は生まれつきせっかちなんだ、つまり「寛容」や「忍耐」という性質には不幸にも恵まれなかったんだと、勝手に思いこんでいました。
でも、私は「patience 」を鍛える努力をあまりしてこなかっただけなのです。
たとえば、大きな事件の生中継があるとき。情報が錯綜して、カメラマンやディレクター、東京の本社のスタッフ、みんながあせると、その「焦り」が伝染して、あたりに充満して、どんどん余裕がなくなって、その結果ミスが生まれて、さらに焦る、という悪循環が生まれてしまうことがあります。
誰よりも「情報」をより「早く」伝えなくてはいけない、そんな現場だからこそ、陥ってしまいがちな「焦りとイライラの伝播」。そんなときは、深呼吸をして、自分を落ち着かせるようにしてきました。
焦ったときのために、ある魔法の呪文があります；
You have all the time you need. 
 日本語に直すと、こんな感じです；
「大丈夫、時間はたっぷりあるんだから。あなたにはありったけの時間があるんだから、落ち着いて」。

時間がないときほど、頭に血がのぼってカッカして焦りはじめるときほど、このコトバを自分に言い聞かせるようにしています。
するとフシギなことに、「なんか焦る意味ってないな…」と、ふっ、と落ち着けるんです。

日本語の「忍耐」だと、場合によっては何となく「理不尽だけど我慢する」っていう感じがする時があります。
「寛容」だと今度は逆に緊張感がなさすぎるような気がします。
Patience といのは、「忍耐」と「寛容」の間にあるようなものかもしれません。
毎日ちょっとずつ「苦しみ」に耐えることによって、段々と耐性が増してくるもの。
着実に自分の力になってゆく何か。
それが、あの坂道の親子を支えているものだったのではないでしょうか。
大丈夫、時間はたっぷりある…どうにも時間が無くって困ったときにそうつぶやいたみてはいかがでしょう、きっと時間泥棒さんもあきらめて退散するハズ。

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         <pubDate>Mon, 11 Aug 2008 11:45:07 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>いつもは読み飛ばしている記事に隠されたクリエイティビティの秘密　――「クセ・習慣」から抜け出すこと　――」</title>
         <description>「今の自分を変えたい」という願いを持っている人は多いようで、書店に行くと、そういった特集を組んでいる雑誌や、自己啓発関連の本や、エッセーが所せましと並べられています。
自分の欠点やイヤなところというのは、誰よりも自分でよくわかっているもの。
「何でこう同じ失敗ばかり繰り返すのかな？」
「自分のイヤなところを変えなくっちゃ」
何かトラブルやイヤなことがあったりして落ち込む度に、いざ！と一念発起します。
でも頑張りすぎて失敗し、また元の木阿弥（もくあみ）。
だけど、自分の生活習慣の中に無い新しいことをひとつやるだけで、
たとえば新聞のいつもは飛ばしている紙面を読んだり、いつもと違うテレビ番組を見る、といったちょっとした「変化」を起こすだけで、大きな＜変身＞への手がかりをつかむどころか、創造力も磨かれる、と聞いたらいかがでしょう。ちょっと興味を持ちませんか？

小さい頃から「出しっぱなし」「脱ぎっぱなし」「食べっぱなし」が直らず、「ぱなしちゃん」と家庭内で異名を付けられたこともある私が、ある日を境に完璧な整理整頓サイボーグに変身することは不可能です。
それでも人一倍、何とかしたい、変わりたい、とは思ってきました。
私だって散らかった部屋はイヤです。
きちんとした住まいほどキモチのよいものはありません。
だからこそ、
「ようし！今日から＜きちんと人間になる！＞」
と、何度も宣言してきました。
でも結局、三日坊主に終わる。
「人間、急には変われないのよ。私の＜ぱなし＞はもう直らないのよ！」
と、開き直ってきました。
　
人間は一日で変わることはできない。その通り。
みんな知ってること。
私もそう思ってました。
でも、逆説的に言えば、「時間をかければ変われる」っていうことかもしれないんじゃない？という考え方にシフトさせてくれる本に出会いました。
先日、ＮＹタイムスでも紹介されていましたが、M.J.ライアンというアメリカの作家が書いた本で、”This Year I Will…”というもの。
日本語で言うと、「今年の私は…」とか、「今年こそは…」という感じでしょうか。

「今年こそ私はこう変わる！」
いつも新しい年を迎えるたびにそんなことを高らかに宣言して失敗し続けてきた私。
そんな私が最近、ちょっとずつ変わってきました。
最近、というよりは、大きな流れで見ると、数年間かけて、ちょっとずつ変わってきた成果が、やっと目に見える形になっているのではないかと思います。

数年前、家を離れて、独り暮らしを経験しました。
その後ふたたび家族と暮らしました。
家族との同居を再開したとき、相変わらず「だらしない！」と注意されることはあるものの、それでも、
「昔とくらべてだいぶ成長した」
と言われるようになりました。
これは私にとって大きな変化です。
最近、結婚して、家を出て、今まで他人だった人と暮らすようになりました。
その新居を、これまで私の「ぱなし癖」の被害を一番こうむってきた人々、母、姉、妹がたてつづけに訪れ、ぱたぱたと部屋や戸棚を開け閉めして家の中のツアーを終えると、　
「すごい、整理整頓されている！」
と驚愕していました。
どれだけ今までだらしなかったのか？！という感じですが（苦笑）。
どうやって変わっていったのか。あるいは変わったのか？その鍵は、
「毎日ちょっとずつ変わる」
ことにあります。

先述の作家、ライアンさんによると、人間の行動には三つのゾーン（区域）があるそうです；
１　comfort 安心・快適ゾーン
２　stretch 緊張ゾーン
３　stress ストレス・ゾーン
私に当てはめてみると、＜安心・快適ゾーン＞とは、「慣れ親しんだ慣習（？）」である「ぱなし癖」。
「だって楽なんだも～ん」というゾーン。
悪いものも良いものもひっくるめて、言ってみればデフォルトの自分、ですね。
＜ストレス・ゾーン＞とは「一気に変えよう」とするもの。
「今日からホコリひとつ、髪の毛一本見のがさないキチンと人間になる！」といって、三日坊主で終わってしまった私。
今の自分とまったく違う自分に一朝一夕になろうとしても、それは逆にストレスを負荷してしまうことになる、ということ。
大事なのは２ の＜ほどよい緊張ゾーン＞。
Stretch、エクササイズで＜ストレッチ＞をするときは、通常の状態よりも筋肉などを「少しよけいに伸ば」します。
ちょっとだけ無理をする。
すると体によい効果が出る。
私の行動パターンにこれを当てはめてみましょう。
たとえば、大学生の頃までは、
「藍佳は洗面所のシンクの周りをびしゃびしゃに濡らす」とよく怒られていました。
ある日、洗面所の目立たないところに、使わなくなったタオルの切れ端をおいておき、気が付いたときに拭くようにすることにしました。
そうすると、ガンコな水垢もつかないし、シンク周りはいつもピカピカ。
それからは、ちょっとでも汚してしまうと気になって、どうやったら「改善」できるのかを考えるようになります。
うがいをした水をはき出すときに、勢いよくやりすぎるといけないんだ、もっとおしとやかにやればいいんだ、とか、洗顔のときは勢いよくばしゃばしゃ流すと周りが濡れちゃうんだ、とか、今まで自分の「習慣」として無意識にやっていたことに「自覚」できるようになりました。
洗顔に関して言えば、ソープは水の膜でそっと流してあげるくらいの意識でやったほうが、肌を傷つけなくて済むので一石二鳥。

日々の生活で、今までの習慣にはなかった「新しいこと」を何かひとつ始めるだけで、いろいろなことを発見することができました。
自分の行動パターンを見直すことができました。
似たような「小さな変化」を、毎日何かしら見つけるようにしています。
すると、久しぶりに会った家族に
「まるで見違えるようだ」
と思われるくらいの「大きな変化」を招き寄せることができる。
ライアン氏によると、「イノベーション」というのは、何か大きな変化や発見によって急に起こるわけではない、つまり「変革」なんて急に起こそうと思って起こすものではなく、「洗面所の周りを拭くこと」といった、小さな日常に起きる変化の中からこそ、生まれるのだそうです。

＜Stretch　ストレッチ・ゾーン＞。　ちょっと不慣れで、なんかしっくりこないぞ、という感じがする時は、脳がほどよい緊張状態におかれます。
この時、脳内では新しいシナプス（ニューロン間の接合部、神経細胞の神経が他の神経細胞にくっつく部分）が生まれるのだそうです。
リハビリテーションのようなものかもしれません。
小さな事でも、「新しい事」をはじめて、それを「習慣づける」ことが大事。
そうしている内に、あたらしい神経回路が形成され、脳が活性化される、ということ。
脳だけではなく、カラダにも影響があるようで、この「適度な緊張」を自分に課すようにしていると、体重が減る、なんていうリサーチ結果も出ているそうです。

この「三つの行動ゾーン」は＜組織＞にも当てはまります。
若手社員が何か新しい試みを提案する。
やりはじめて、どうもうまくいかない。
結果が出る前に、上に立つ人間が「うまくいかないじゃないか、元のやり方に戻せ！」と言ってしまえば、少し育ち初めていたかもしれない「変化の芽」が摘み取られてしまいます。
最初はうまくいかないかもしれない、でもそれは当然です。
なぜならそれは「新しいこと」だから。
その「うまくいかない感じ」こそ、「ちょっとした緊張状態」を職場に生み、「イノベーション」や「創造力」の源泉となる。

小さな新しいこと。
ライアン氏は、この「ストレッチ・ゾーン」での＜変化＞をKaizenと呼んでいます。
＜大きな変革＞のためにはまず日々の＜改善（kaizen）＞から、という日本人の考え方から学ぶべきだ、という彼女の主張は、日本人としてちょっと嬉しい感じがします。
それは、何でもいいそうです。
肩に力を入れる必要はありません。
たとえば私は、メークに使うアイライナーを毎朝変えるようにしています。
それぞれ色や質感が違うので、アイメークベースや、アイシャドウの色も合わせて変えなければいけません。
顔全体の雰囲気にも変化が出るから、来てゆく服のコーディネートや、アクセサリーも変わってくる。
あるいは、起床する時間を変えてみてもいいですよね。
あと、毎日何かしら新しい料理に挑戦するようにしています。
別に、一流シェフもびっくりな創作料理を作る必要はないんです。
味付けを変えたり、新しい食材を使ったり。
昨日はアマランスという南米原産の雑穀をゴボウと一緒にキンピラにしてみました。
すると、アマランスは粒が小さいので目の粗いザルだと流れてしまったり、フライパンの温度が高くなると色々なところにプチプチと飛んでいってしまうので、手早く調理しないといけないとか、色々発見がありました。
こういうことがKaizenなのかもしれません。

大事なのは、「クセ」や「習慣」からちょっとでも抜け出ること。
最初はそろ～りそろ～りでも、ほんの少し負荷をかけてあげるだけで、色んな事により「気づく」ことができる意識状態を保つことができる。
心に「遊び」や「ゆとり」が生まれる、よりクリエイティブな人になれる、そう考えて、今日これから、いつもは買わない女性誌を手にしたり、いつもとは違う地下鉄の出口を目指したり、何かひとつ、新しいことをしてみてはいかがでしょうか？
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         <pubDate>Fri, 23 May 2008 12:56:59 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>　＜喜捨＞　幸せをひとり占めにしない「喜んで捨てる」ルール</title>
         <description>あなたは信心深い方ですか？
信心深いっていうとちょっと日本人にはあまりなじみがないかもしれません。
そんなに大仰な「信心」でなくてもいいんです。
たとえば、新しい靴は夜には出さないとか、霊柩車が前を通り過ぎる時には、親指を隠すとか、お葬式から戻ってきたときは家族に塩をかけてもらうとか、そういうことを大事にする方ですか？ということ。

私は結構気にする方です。
靴だけでなく、新しい服は夕方以降は着ないようにしています。
お通夜に、亡くなった方に新しい浴衣を着せるという日本古来のならわしからくる習慣です。
だから、生きている人は夜に新しい着物を着ない、ということなんですね。
小さいときから、親に新しいお洋服を買ってもらって、それを来て遊びに出かけようとすると、「夜に新しい服を着てはいけません！」と注意されてきました。
母親が日本の伝統を大事にするタイプで、影響を受けているようです。

さて、年が明けてからこの方、私の身にイヤなことがたてつづけに降りかかってきました。
「イヤなこと」というのは、予期せず自分の身にふりかかってしまう「イヤなこと」、言ってみれば「交通事故」のような種類のコトです。
極めつけとして、実際に、交通事故に遭ってしまいました（そんなに大した事故ではないのでご心配なく…）。
元々、「運」は良いほうだと思っているので、一体どうしたことだろう、と自分でもフシギでしょうがなかったんです。
何か知らない内によくないことをしているんじゃないか？そんな気がしてきました。

でも、そういった「事故」以外のことは基本的には順調で、仕事もプライベートも楽しく過ごし、何不自由ないというか、まさしく「すこやか」に過ごさせていただいているんです。
ひとつ、気になることと言えば、年末年始バタバタしていて、初詣でにいきそびれていること。
海外に住んでいる時をのぞくと、今までの人生で初詣でに行かなかった、つまり氏神様にご挨拶にいかなかった年などなかったんです。
それが今年は行っていない。
それと、父方と母方両家のお墓参りにずいぶん行っていない。
母方のお墓は湘南にあるので、そんなに遠くないのですが、父方のお墓は京都にあって遠いので一昨年に法事があってから行ってないように思います。
そんな話を、仕事でお世話になっているある人物に相談したところ、こう言われました；
「幸せをひとり占めしないことです」
はて？最初はどういう意味だかよくわからなかったんですが、話を聞いている内になるほど！と思ったのです。
その人が言うには、「誰もがうらやむような幸せの絶頂にあって、何不自由の無い人に、突如として大きな不幸が襲いかかることが往々にしてある」のだそうです。
言われてみると、そうかもしれません（まぁ私の幸せといってもささやかなもので、そんな「絶頂」と言うほど大したことではないのですけれども…）。

「世の中はプラスとマイナスで成り立っている。幸せがあれば不幸もある」。

苦労をしたからこそ、幸せのありがたみが分かるものだったりします。
私は小さいときからお調子者で、小さい頃から「落ち着きがないから、調子に乗って変な落ち度の無いようにしなさい」と、これまた親から言われてきたのですが、それと同じで、幸せでルンルン気分だと、逆に周囲に感謝することを怠ったり、ついうっかりして誰かに失礼をはたらいてしまったりすることがあります。
「調子に乗る」というコトバだけみると、波に乗っている、リズムに乗る、といった感じで、いい意味のようにも思えますが、「調子に乗る」とかえって「調子っぱずれ」の歌をうたってしまうもの。
それは、プラスばっかり作ってしまって、マイナスに目を配ることが出来無くなるからなのかもしれません。
「調子がイイ」時は、その「おすそわけ」をして、陰と陽のバランスを整えないといけないのだそうです。

じゃあどうすればいいんでしょう？

「ボランティアや寄付、何でもいいから、見返りを期待しない＜善行＞を世の中に対してすることです」
と言われました。
そこで、人権活動を行っている団体のサイトに行って、何ができるのか調べてみました。
いろいろ選択肢があり、中には毎月一定額の寄付を自動引き落としにするプランがありました。
これですと、毎月３千円で世界中の２００人近くのこどもたちに、最低限の文具を届けることができるそうです。
３千円なら、たとえば中距離のタクシー代を一回ひかえただけで捻出できます。
これとは別に、支援する対象を選べる寄付がありました。
チャイルド・ポルノ撲滅運動や、スーダン紛争人道支援など。
ネットで申し込むと、コンビニで振り込めるという便利なシステムです。
やろうと思えば、いつだって簡単に人道支援活動に寄付ができるのです。
それも自分で考えて、使い道を指定することができます。
遠い国で貧困や紛争で苦しんでいる人々の生活が、いくらの金額でどれだけ改善できるのか、具体的な数字で表されるのを見て、何故いままでしてこなかったんだろう、これは寄付をしない手はない、と実感しました。

私は、報道に携わっています。
何らかの不当なあつかいを受けて困っている人を取材して、その後に政府が動いたりするなどの変化があり、改善の兆しが見えることがあります。
そういう時、取材をさせて頂いた方に心から感謝されることもあります。
それは、良いか悪いかで言ったら、もちろん良い行いだと言っていただけるでしょう。
でも、その取材はマスメディアという巨大なシステムの中の、一歯車としての私が、求められた役割を果たしたに過ぎないとも言えます。
また、あえてうがった見方をするならば、視聴率が広告費に結びつく商業放送の枠組みの中での「プラス」は、「無償の善行為」とは本質的に違うとも言えます。

報道する側にも色々な立場があります。
日々、特定の分野で情報収集を進める記者がいて、そこからある情報をピックアップしてフィーチャーして放送する番組の担当者がいて、そこで初めて私に指令が下りてきて現場へ取材におもむきます。
私の取材は、ひとつの「最終表現」という形でオンエアされますが、そこに到るには多くの人の努力と力が積み重なっています。
その上で、最終的にニュースの現場に行って「生」を感じ、映像として流れ、反響があり、取材に応じて下さった方の「生の声」も返ってくる、という私の立場は、とてもやりがいがあって恵まれた立場です。
また、直接仕事でお世話になる関係者だけでなく、番組などで私を見て下さっている多くの方々の力によって、私は生かされています。
だからこそ、直接利害関係のない、まだ会ったこともない人々に向けて、ほんのわずかであっても「プラス」のことをするのは、至極当然のこと。
私の「責任」というか、いわば「義務」のようなものだと、人権活動団体のサイトに行ってみて感じました。
　
「幸せをひとり占めしてはいけない」。

そう知人に言われたコトバを、私に当てはめて解釈すると、こうなりました。
あなたはどう解釈されますか？
…そんな偉そうなことを言っておきながら、日々の私は決して人様に自慢できない失敗を繰り返し、周囲に迷惑をかけっぱなし。
でも、だからこそ、ボランティアといった行為は、自分を見つめ直すよい機会をくれるのではないでしょうか。
日本という恵まれた国で生活する＜私＞という人間を、世界という大きな地図の中においてみて、客観的に、相対的に見ることができるチャンスになります。
私に「幸せプラス・マイナスの法則」を授けてくれた知人は、一緒に飲みに行っても仕事の愚痴を言ったことがありません。
ある時私が、
「仕事の愚痴を言いませんね」と言うと、その人は、
「せっかく美味しいお酒とお料理をいただいているのに、わざわざ仕事の愚痴を言って台無しにすることほどもったいないことはありません」と言いました。

東京で夜、外食して、少し飲んだりすれば、３千円から１万円くらいはかかってしまいます。
終電を逃してタクシーで帰ると、郊外ならば１万円はかかります。
もちろん、接待など、どうしてもはずせない「飲み」もありますが、そんなに必要でない「飲み」なら、一度ガマンしただけで、一体どれくらいの数の子どもたちに、将来のよりよい生活への夢を抱かせる一助となる新しい教材や、命をつなぐために無くてはならないワクチンを届けることができるのでしょう。
５千円の飲み代に、７千円のタクシー代なら、１０００人近くの子どもたちに文具が行き渡るか、もしくは「はしか」から命を守るワクチン６００回分以上がまかなえる計算になります。
ここで挙げた数字は、すべてユニセフのウェブサイトに出ています。
試しに、いくらの募金で具体的にどんなことができるかを、サイトでご覧になってみてはいかがでしょう。

「善行」、というと、ひるんでしまいそうですが、自分が日々の生活にかけているお金と、世界の恵まれない状況にある子ども達に具体的に何かをしてあげられる金額を比較してみると、自分の＜意識＞の中にちょっとした変化が生じてくるかもしれません。
ちなみに、とっても出遅れた初詣でをかねて、とある都内の神社に「おはらい」に行ってきました。
そのとき、お賽銭箱に「浄財」とありました。
これは、言い得て妙です。
お金というのは人間の欲望にまみれているものですが、時にはお金を「欲」から解き放ってあげることが必要なのかもしれません。

イスラム教では、貧しい人を助けるために寄付をするザカートないしサダカ、日本語訳は「喜捨」という行いが教義に含まれています。
厳密に言うと、貧民救済税のように「義務化」されたものと、自らの意志で行うものなど、細かく分かれているようですが、私はこの「喜捨」という日本語訳に興味を引かれます。
苦労して築き上げた財産を「捨てる」人などいませせん。
自ら稼いだ血と汗と涙の結晶であればこそ、死んでも手放したくないのが人の常、それが「お金」です。
それを何の見返りもなく、不特定多数の人に明け渡すという行為は、資本主義のロジックで言えば「捨てる」に等しいと言えるでしょう。
でも、そこをあえて、「喜んで捨てる」…資本主義社会に生きる個人は、費用対効果、利ざや、利害関係といったものにがんじがらめにされています。
「喜んで捨てる」ことは、そこから自分を解放してあげる一つの契機になるのではないでしょうか。
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         <pubDate>Mon, 14 Apr 2008 11:40:20 +0900</pubDate>
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         <title>「行動」よりも「何もしないこと」によるリスク回避</title>
         <description>旅立ちの時、スーツケースを引っ張って家を出る時に、「何か忘れている」という強迫観念にとりつかれることはありませんか？
何度もチェックして、何も忘れていないはずなのに、どうしても不安でたまらないという気持ち。

私は、仕上げなければいけない原稿の締め切りから、ヘアサロンに行く時期にいたるまで、ありとあらゆる「しなくてはいけないこと」を手帳に書き込んでいますが、そのすべてが順調に「チェック済み」になった週末、どうしても
「まだ何かやらないといけないことがあるんじゃないか」という不安に駆られてしまうことがあります。
何度チェックしても、やるべきことは全部終わっているのにもかかわらず、寝る前、横になって天井を見上げると、妙に不安になってしまうのです。

情報過多の社会に生活している現代人は、常に選択を迫られています。
その中で、何もしないよりは、とにかく「何か」「行動を起こす」方がいいとする傾向があります。
何もしないで失敗するよりも、八方手を尽くし、やれるべきことは全てやって、それでも失敗したときのほうが、後悔の念が少なくなると考える人の方が多いですよね。
「座して待つ」よりも、「行動」したほうがいいとする考え方です。

ところが、「意思決定」の場面においては、とっさの判断で何か行動を起こすよりも、「何もしない」ことのほうがよい結果を出すとする研究が発表され、話題になっています（注1）。
イスラエルのベングリオン・ネゲブ大学の講師、オーファー・アザル氏（注2）の研究チームは、ペナルティー・キック時のゴール・キーパーの「とっさの判断」を参考にしています。

（注1）http://www.nytimes.com/2008/03/01/business/01kick.html?_r=1&amp;scp=1&amp;sq=the+art+of+the+save&amp;st=nyt&amp;oref=slogin
（注2）
http://www.oferazar.com/papers.html

ペナルティー・キックのとき、キーパーは対面する選手のクセなどを考え、真ん中よりも右か左どちらかに少し寄ってボールを待つことがよくあります。でも、「右」だと読んだのに、実際に選手が「左」に蹴った場合は、防御することはできません。
「右だ」と「判断」して右よりにいくよりも、むしろ「何もしない」で、「そのまま」「真ん中」にいたほうが、防げる可能性が高かったはずです。

アザル氏の研究チームは、イスラエル国内で行われるサッカーの試合から、ペナルティー・キックのデータを収集し、比較しました。
すると、やや意外な結果が出たのです。
キーパーが「行動」（ボールが蹴られる前に右か左に寄ったり、蹴られると同時に右か左にジャンプするなど）を取った時と、「何もしなかった」（真ん中にとどまった）時を比較すると、「何もしなかった」時のほうが防御率が高かったのです。
具体的数字を挙げると、右か左に跳んだ時はおよそ１３％の防御率だったのに対して、「何もしなかった」場合の防御率は３３．３パーセントと、なんと倍以上なのです。

でも、ペナルティーキックを防げなかった時の「心理」をキーパーに聞いてみると、「自分を責める」度合いは、「右か左に跳躍した」時のほうが、「何もしなかった」時よりも低いことがわかったそうです。
数字から見ると、「何もしない」方が結果的によい成績が出ているにも関わらず。

これはどういうことでしょうか？
とっさの判断をすることに関してはプロ中のプロであるゴールキーパーにしても、実際の結果よりも、「何かした」という安心感を優先してしまう、ということなのです。

現在アメリカ経済の雲行きが怪しい状況ですが、こんなときはＦＲＢ（連邦準備制度理事会、アメリカの中央銀行にあたります）のトップ、バーナンキ議長などには「何かする」ことが求められます。
よく政府や中央銀行の「無策」が批判されますが、それを避けるためにも「八方手を尽くした」と言えるように、「あの手この手」を駆使するわけです。

他の調査でも、株価が下落しているときなどに、投資家が、何か「行動」を起こして１５０万円の損失をこうむったときと、同じく１５０万円の損失を「何もしない」でこうむったときでは、「何もしなかった」時のほうが心理的ダメージが大きいそうです。
結果は変わらないのに。

でもまぁ、人間としては理解できます。たとえ結果が同じだとしても、いろいろと手を尽くした後であれば、「しょうがないよね」と自分の言い訳になりますし。
ただ、ビジネス・マネジメントが専門のアザル氏研究チームによると、そのような姿勢が、私たちに「行動バイアス（＝偏見）」を植え付けているということのようです。
何はともあれ、「何かする」方を好意的に評価してしまう、という＜偏見＞のために、私たちは客観的事実に基づき、論理的な判断を下すことができなくなってしまう、ということが、ゴールキーパーのペナルティー・キックの分析によって明らかになったのです。
「悪あがき」という日本語がありますが、これは「行動バイアス」と似ているところがあります。
つまり、どう転んでも事態が好転することは有り得ないのに、ムダな動きをする、ということです。
自分自身の経験で考えてみると、ムダな動きをして、つまり「行動」を起こしてしまったことによって事態がより悪くなったケースは、結構思い当たります。

人が「転職しようかな」と思うときは、現在の職場である程度のストレスを抱えているときです。
そのような状況では感情に走ることも多くなりがちです。
たしかに、そんな状況で「冷静」かつ「客観的」な判断を下せるか、というと、疑問符がつきます。
ではどうすればいいのでしょうか？ゴールキーパーの防御率から見ると、
「何もしない」
ことも選択肢のひとつに数えてもいいのかもしれません。
ただ、実際にキーパーの意見を聞いてみると、「真ん中に立ったまま何もしないで、セーブできたキーパーなんて見たことがない」という声もあるようです。
数え切れない選択肢の中から、自分の経験と五感を駆使して、ゴールキーパーは判断を下します。
ここから、キーパーの取った「行動」の是非は、防御率から単純に決めつけられるものではない、とも言えます。
また、数字などで明快に表すことができる「結果」よりも、「過程が大事」という立場を取るなら、結果はどうあれ「本人が満足」していればそれでいいではないか、と言うこともできるでしょう。

ただ、問題は、何が本人にとって一番「よいこと」か、何が本人にとって一番「幸せ」なのかを、本人がわからないことが多々あることです。
ストレス過多の状態だと、何がいいことで悪いことなのかさえよくわからなくなることってありますよね。
そういうときはどうすればいいのでしょうか？
私の経験で言うと、信頼できる友人にありのままを相談するのがよいように思います。
そうすると、自分よりも客観的に今の状況を判断してもらえるでしょう。
大抵の場合、「まずは落ち着いて、もうちょっと我慢してみるべき」と言う答えが返ってきました。
振り返ってみると、私の今までの人生で、転機となるような決断を迫られたとき、「何もしなかった、行動しなかった」ことが、のちのち良い結果を導いたことがいくつかあるのです。

「雉も鳴かずば撃たれまい」ということわざがあります。
「鳴いて」、つまりは「行動」を起こしてしまったことによって更に事態の悪化を招いてしまう、ということがないように、たとえ本当に「行動」を起こす必要があるときであっても、ギリギリまで待って見て、事態を静観してみることは大事なのでしょう。
そうすれば、自分が本当に求めているものは何なのか、段々とわかってくるかもしれません。
「過程」を取るのか、「結果」を取るのか、あるいは多少の物理的損をしたとしても、自分の「心の平安」を優先するのか…。
ただ、意思決定を求められたときに「何もしない」というのも、ひとつの選択肢とし常にオープンにしておいた方がいいということは、どうやら確実なようです。
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         <pubDate>Fri, 29 Feb 2008 13:25:25 +0900</pubDate>
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         <title>ジンジン人事</title>
         <description>「○○社の社員が三人集まれば人事の話になる」という言い方を最近、幾度か耳にする機会がありました。
それぞれ違う会社の方から聞いたことです。
要するに、「自分の会社の人間は、三人寄れば人事の話になるって言われるくらい人事の話が好きなんだ」ということをおっしゃりたいようでした。

「三人寄れば文殊の知恵」ということわざがありますが、まるでことわざのように広く世間に知れ渡っていることであるかのように「○○社の社員は人事の話が好き」と言う「会社員」の方は結構いらっしゃいます。
というより、「会社員」のみならず、省庁・大学・病院・法人など、ある程度の期間、安定して人が所属する組織の構成員で、「人事」に興味を持たない人は少数派なのではないでしょうか。なぜでしょう。
当然と言えば当然のことかもしれませんが、今回は「人事」と「政治」についてちょっと考えてみたいと思います。

広辞苑によると「愚かなものでも三人集まって相談すれば文殊菩薩のような良い智恵が出るものだ」というのが「三人寄れば文殊の智恵」の意味とあります。
文殊菩薩は仏の「智慧」の象徴。
「三人寄れば社会ができる」という言い方もありますが、それは三人いれば多数決を取ることができるからではないでしょうか。
三人いれば、「多勢に無勢」が生まれ、「政治的駆け引き」の余地が生まれます。

ある組織の所属人数が多くなればなるほど、ひとつの決定を下すにあたって「利害対立」が生まれやすくなります。
同じ決定をしても、損をする人と得をする人が出てくる。
だから、ある決定が下されるぞ、という噂が流れると、皆が浮き足立ち、お昼休みにはそれぞれの派閥がつれだって、ひそひそ声で情報交換をし、敵対陣営の動きへの対抗策を練る。
この作戦会議は、高級ホテルのレストラン、ファストフード店、喫茶店、廊下、給湯室で、昼休みだったり深夜だったりと、場所と時間を問わずゲリラ的に展開されます、たぶん。　「たぶん」というのは、私は「フリー」の立場で仕事をしていて、どこの組織にも所属していないからです。
私のようなものが「人事」に関して持っている知識など『白い巨塔』や『課長・島耕作』のウケウリの範囲を出ることの無い、想像の世界に限定されたものかもしれません。
でも、複数の組織とお仕事をさせていただく立場ですから、私のようなものにも「人事の話」は様々な形で影響を及ぼしてきます。
のみならず、私がそれほど直接の利害関係にかかわる者ではないということで安心されるのか、組織に属する方々から内部事情を聞かされることがしばしばあります。
往々にして、「人事の話」は「まったくやんなっちゃうよね、サラリーマンってさ」とやや自虐的に切り上げられます。

それは、「人事」という俗世間的なものに左右されるわが身を憂うからでしょうか。
しかし、どちらかと言えば「人事」それ自体をネガティブに捉えている姿勢を明らかにしているにも関わらず、「人事の話」をする時に瞳をキラキラ（あるいはギラギラ、ときにはランランと？！）と輝かせる方が多いのも事実です。
実は、他人事として聞いている私からしても、○○課長が○○専務サイドに寝返ったとか、そういった生々しい「裏事情」はスリリングで興味深かったりします。
「人事の話」をする自らを卑下するように語りながらその実、「この人は心から＜人事＞が楽しいのではないだろうか？」と思わせるような瞬間に出くわすこともあります。

思えば、洋の東西を問わず不朽の名作とされる文学の古典は「人事」を何らかの形で扱うものが多いのも事実です。
『源氏物語』だって艶やかな王朝ロマンスの影で熾烈な権力闘争がうごめいています。『ハムレット』だって、ただネクラな青年が悶々としているだけのお話なのではなく、ノルウェーという強国が目前に迫りつつある危機的状況におかれたデンマークの主導権を握るのは誰か？！という政治闘争を描いている側面もあります。
同じくシェイクスピアの手による『ジュリウス・シーザー』に到っては「人事闘争」そのものです。
試しに現代の企業社会に「カエサル」をあてはめてみましょう。

カエサルという天才的なサラリーマンは、会社に拡大と繁栄をもたらしたことからトップに上りつめ、絶対的な権力を握っています。
ところが、そのカエサルというワンマン社長を影に日向に支えてきたブルータス専務の耳元で、カシアス常務が悪魔の誘惑をささやきます。
「あなたにはリーダーの資質があるのに、今までいいようにカエサルに利用されてきた。このまま一生、太鼓持ちで終わるのか？それとも一国一城の主になる気があるのか？覚悟があるなら我々が助けてやろうぞ」と。
そして、緊迫の取締役会でＣＥＯの追放劇。
ところが、長きに渡るカエサルＣＥＯの支配と縁故入社によって、もはや創業者一族と化した株主社員ネットワークが巻き返しをはかる。
急遽開催された株主総会で、「ＣＥＯ解任はクーデターである」と糾弾し、一般投資家の同情がカエサルの甥、アントニウス人事部長に集まった結果、最終的にはブルータス専務とカシアス常務の一味はローマ社から追放されるどころか、背任の罪に問われてしまう……。これって「悲劇」ならぬ「人事劇」ですよね。

「人事」には、何世紀にも渡って語り継がれ、人を惹きつけるほどの魅力があるのでしょう。
組織・システムを動かす力学という意味では、「人事」は広い意味で「政治」です。
「政治」という観点から見れば、「人事」は文学に限らず様々な分野で主要なテーマであり続けています。
「人」と「事」という字が現しているとおり、「人事」には「ヒト」の本質があるのかもしれません。
ギリシャの哲学者、アリストテレスも「人間」は「zoon politikon」＝「政治的動物」だと定義しました。
アリストテレスによると、人間は、何が正しくて正しくないのかを判断できる唯一の動物なのだそうです。
つまり正義がわかる動物ということですね。
そして、政治的なつながり、関係は「正義」を基本に作られるそうです。
ではどうして人間には「正義」の感覚があるかというと、それは「言語」があるからだそうです。
わかりやすくいうと、私たち人間は「話す」ことができるから、何が良いことで、何が悪いことかの「価値判断」ができる。
だから「正義」の感覚がある。そして「正義」は「政治」によってこそ達成できる、ということです。

このアリストテレスの「政治的人間論」を「人事の話」に置き換えてみましょう。
あなたは、「不当」な評価を受けて、不当な配置換えをされたとします。
それは自分にとって「正義」が行われなかったことになります。
あなたは、正しい評価をきちんと受けるために、様々な作戦を練ります。
人事部長を動かすために、部長に近い人たちに「話」をしに行きます。
あなたは自分の「言葉」で徐々に関係者に影響を与えてゆきます。
そしてついには部長の意見をかえることに成功しました。
あなたはあなたにとっての「正義」を達成したことになります。
「人事」こそ「政治」であり、「政治的存在」である「人間」の本質であり、そしてその目的は（アリストテレスによれば）「正義」の達成にある、ということになります。

たしかに、ひとたび「人事」が牙をむくと、単身赴任という形で家族が離れ離れになったり、やりたくもない仕事をさせられたり、もだえ苦しむ思いをさせられることも多々あります。
「人事」は「人生」を左右します。
でも、長い歴史の中で人は例外なく「人事」、あるいは「政治」という営みと向き合い続けてきたということ、ここに「人間の本質」があるのだという事実に対して腹をくくってみると、少し見方が変わるような気がするのです。
給湯室やトイレでの噂話や、ついくさくさしてしまうような上司の小言や、同僚の他愛も無い言動に一喜一憂してしまう自分へ自己嫌悪が生むストレスも、悠久の時の流れに身をおいて捉えてみると、なんだかどうでもいいことのように思えてくるかもしれません。
不安とストレスの源にしてしまうよりも「＜人事＞もそう捨てたものでもないかもしれないな」と常日頃から思っていれば、うまくいかないことがあっても「それが人事、それが人間。会社が評価しなくても、家族や友人が評価してくれているさ」と割り切りやすくなるのではないでしょうか。
「人事」をやるときは真正面からやる。
それでも負けた時は「ジンジン人事〜♪」と鼻歌でかわしてやるくらいが丁度いいのかもしれません。
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         <pubDate>Thu, 31 Jan 2008 19:06:48 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>「伝える」よりもまず「聴く」こと。</title>
         <description>書店に行くと、「コミュニケーション」や「伝える」ことに関する本が所狭しと並べられています。
プレゼンで社内の関係者を説得する術、信頼される話し方、などなど。
自分が出て、目立って、そして注目を浴びることに主眼がおかれている書籍が多いようです。
どちらかといえば「攻撃的」な「伝え方」と言えるでしょう。
人が話す、つまり誰か他人にモノゴトを伝えようとするスタイルを「攻撃的・守備的」にあえて二分してみると、あなたはどちらに入りますか？
「時と場合によるし…」と答えられるかもしれません。
私はどちらでしょう。
小さいときは、何か目新しいモノを発見すると、気になってしょうがなくて、自分で観察して、調べて、わかったことをみんなに伝えたくってしょうがない、そんな子供でした。
私は「攻撃的」な「伝え方」をするべく生まれついているようです。
オトナになっても、知りたがりで伝えたがりの性分はそのままですが、ラジオや雑誌、テレビといった「メディア」で「伝える」仕事をするようになって、ちょっとずつ変わってきたように思います。

大学の最終学年くらいから、ときどき文章を書いてお金をいただくようになりました。
当時私が書いた評論文を知っている人が、久しぶりに私が女性誌に書いたエッセーを目にしたらしく、メールをもらいました。
「ずいぶんすっきりした文章を書くようになったんだね。昔の、もっと言葉がハネているような文章の印象と比べると、あまりに違うから驚いたよ」。
彼が読んだ私の「昔の文章」というのは、学術誌などに掲載されたアカデミックなものです。
当然ながら、原稿用紙３０枚の評論と、２枚の女性誌エッセーでは文章の目的がそもそも異なります。
毎日何かしら文章を書いて、プロの編集者の目に触れ、赤を入れられる作業を続けていれば、自ずと文章力は訓練されてゆくもの。
ただ、ここ数年の間に起きた私の文章の「変化」は、そういった変化ではなく、もっとなにか「質的」な、それこそ「変質」のようなものなのかもしれません。

取材で出張になるような大きな「ニュース」にはほぼ間違いなく人の生き死にが関わってきます。
大きな事件だからこそ行くし、大きな事件にはどうしても「命」が絡んでくる。
大事な友人を失った人、最愛の妻を失った夫、子供を失った母。
ついさっきまで何とはなしに過ごしていた日常が一瞬にして吹き飛び、気が付いたら大量の報道陣に囲まれて身動きが取れない。
何が起きたのかも理解できないままに、マイクを向けられ、質問を浴びせかけられる。
多くの人はとまどい、逃げようとする。
でもそれが「ニュース」であるからこそ、やはりマイクを向けられる人々も、マイクを向ける人々も、その宿命から逃れることはできません。

ベネディクト・アンダーソンという学者が書いた『想像の共同体――ナショナリズムの起源と流行』という本があります。
なにやらコムズカシイ感じのするタイトルですが、言いたいことはシンプル。
今私たちが暮らす世界は「国家―ネーション」を軸に動いています。
アメリカと日本、日本と中国、北朝鮮と韓国、国連やＮＡＦＴＡ、と言う風に。
ずいぶん長い間、人間は『国家』というシステムのなかで生きてきたように思いますけれど、実はこのシステムができたのは結構最近で、そこにはある「きっかけ」があったとアンダーソンは主張しています。
１８世紀後半から１９世紀前半にかけて、グーテンベルクの発明によって印刷技術が格段に向上し、大量の「新聞」を印刷することが可能になったことがその「きっかけ」。
「印刷された言葉」は遠くの地に住む人同士がコミュニケーションを取る唯一の手段でしたが、それまでは「ラテン語」をあやつる聖職者など一部の人に限られていました。
そこにドイツ語やフランス語、イタリア語といった、「俗語」、つまり「自分の国の言葉」で書かれた情報を、「新聞」によって共有する範囲が産まれた、それが「近代国家」だ、というのです。

「新聞」が無かったころは、山を越えた隣の村で殺人事件があろうと、山のこっち側の人間はそんな出来事があったことさえ知りません。
何かを「日常的」に「共有」することが無ければ、隣の村の人たちに親近感も覚えません。
つまり同じ「コミュニティ」にはいないのです。
ところが、事件の翌日に新聞でその事件を知ることができたらどうでしょうか。
中には、被害者が遠い親戚だということに気づく隣村の住民もいるかもしれません。
つまり、山をはさんでまったく別世界だった二つの村が、メディアによって、ひとつの「想像の共同体」になるのです。
だからアンダーソンの本には「想像の共同体」というタイトルがつけられているんです。
　
長時間の取材が続き、たてつづけに「もうあんたたちマスコミはやりすぎだよ。
遺族はそっとしておいてあげなよ」と言われてインタビューを断られたりすると、「何のために取材しているのか」、正直いって自分でもわからなくなります。
もう一日中寒空の下にいるし、いつ終わるともしれない聞き込みをつづけているし…こっちだってやめたいよ！遺族はそっとしておいてあげたいよ！って叫びたくなります（「とはいえ姉ちゃんも仕事だから大変だよね〜」と同情してくださる方もたくさんいらっしゃいます…）。

そんな折。やっとたどり着いたある証言者。
マスコミも、少ししかいません。
本人は、とっても傷ついているのがありありと伝わってきます。
マスコミを避けるため、寒い中何時間も自転車をこいでいたというのです。
でも彼女の友人が、「ここで全部はき出しておいて、それから身を隠した方が自分のためにもいいはず」と言い聞かせ、何とか出てきていただきました。
矢継ぎ早に飛ぶ質問。でも彼女はうつむいて答えない。
時折、首を縦にふったり、横に振ったりするだけ。
よく見ていると、彼女の首の振り方には明確な意志があって、その小さな体におさまりきらないほどの感情であふれていることがわかりました。

私は、「ニュース」として聞きたい「情報」を彼女から得ようとするのではなく、彼女の「感情」に語りかけることにしました。
ほんの一、二秒だったのか、あるいはそれよりもっと短い時間だったかもしれないけれど、緊迫した取材状況ではそれがとてつもなく長く感じられるものです。
しかし彼女は応えてくれるように感じました。
それは彼女の「呼吸」のようなものから感じられました。
堰のようなもので感情があふれないようにしていた、でもその堰が、実はもう決壊しそうなこと、というよりむしろ彼女自身が決壊させたい、誰にも伝えられずに一人で抱えてきた感情の渦から解放されたい、と思っているような気がしました。
「まだよくわからないけれど、あなたはとてもつらい思いをしている。信じられない経験をしている。ちょっとずつでいいから、聴いているから、話していただけませんか？」そんな気持ちを込めて、聴いてみました。

しばし待ったのちに、彼女がはっきりとした口調で、失った大事な友人について語り始めました。
それまで言葉にならない、かすかに聞き取れるくらいの声をもらしていただけだった人が、とつとつと、語り始めたんです。
結局、彼女のコメントはいわゆる「本記」と呼ばれるニュースの中身自体とズレてしまうということで放送されませんでした。
でもこのとき、私は色々なことに気づかされました。
彼女が、割合とはっきりと応えている週刊誌の男性記者がいました。
その男性記者の「聴き方」は私とはまったく違いました。
なぜ、彼女はあのとき、私と彼が聴いたことに応えてくれたのだろうか、と考えてみたのですが、おそらく、彼も私も、「一人の人間」として彼女に向き合ってみようと、どこかで腹をくくった瞬間があったのではないでしょうか。

そこから、その場の「空気」が少し変わりました。
通常ならば「間」があくと次の質問が投げかけられるのに、その場にいる全員が彼女の「応え」を待っていました。
待つこと、というのは、恐るべきスピードで情報がやりとりされるマスメディアの現場においては、とっても難しいことである一方で、一番大事なことなのかもしれません。
ただただ前のめりに、攻撃的に「伝えたい」と突き進んでも、それは往々にして「のれんに腕押し」になってしまいます。

「命」にまつわる傷を負った人の気持ちは、想像しようにも不可能です。
痛みを代わって味わうことは決してできません。
「貴方」にとって「私」は「他者」です。まったくの「他人」です。
でも、まったくの「他人」どうしが、同じ「コミュニティー共同体」に属していることで、何らかの痛みを分かち合いたいと考え、それが時にその「コミュニティ」を動かす力になることがあるのだとすれば、そのことによって、ほんの少しであっても救われる人がいるのだとすれば、誰かが心の重しをおしのけて、ゆっくりと語り出すまで、何時間でも、何年でも、待てる自分でありたいと感じました。
前へ前へと「伝えたいこと」を押し進めるのではなく、逆に人が私に「伝えよう」としていることは何か、私に求められている役割は何か、という「声」を聴く「耳」を持ちたいと思っています。
「聴く」ことこそが、「伝わる」「伝える」ための最初のステップだということが、今年一年、たくさんの「痛み」に触れて学んだことです。
来年は、相手の呼吸に合わせるくらい、その人に寄り添うようにして耳を傾けるられるようになりたい。
そうして紡ぎ出されたその人の言葉を、解釈するのでもなく、編集するのでもなく、要約するのでもなく、ただ「聴いて」行きたいと思っています。


★「聴く」ことについて鷲田清一さんという哲学者がステキな本を書いていらっしゃいます。
鷲田清一著『「聴く」ことの力――臨床哲学試論』ＴＢＳブリタニカ


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         <pubDate>Tue, 25 Dec 2007 11:12:00 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>『絶対変わらない肌を保つための＜魔法＞と＜お椀＞の関係』</title>
         <description>週末に神宮外苑を車で通ったとき、銀杏並木（黄色い銀杏の葉は、東京の秋の風物詩です）がまだ色づいていないので、これだけ寒いのにおかしいね〜、と家族で言っていたのですが、どうやらあまり急激に寒くなってしまったので、銀杏の木が気温の変化に追いついていないらしいんです。
気温や湿度に合わせ、生き物は枯れたり、冬眠したりして自分を守ろうとします。
人間も一緒です。
カラダが季節に追いつけなくて、体調をくずしたり、お肌が荒れる。
カラダが繊細になっている分、内側からも外側からも、与えられる栄養によってお肌のコンディションの変化がとてもわかりやすい時期。

味覚の秋、と言いますが、秋から冬にかけて旬とされる食材は、ただおいしいだけでなく、その時期に人間のカラダが必要としている養分がたくさん含まれています。
魚介類の鍋などをいただきますと、コラーゲンがたくさん摂取できて、乾燥しがちなお肌に活力を与えてくれます。
私は夏の終わりに、体調を少し崩し、それ以来、肌の状態も、カラダ全体も、なんとなく調子の悪い状態がつづいていました。
肌の皮脂バランスが崩れ、オトナニキビができるのに乾燥している、という混合肌の度合いが強くなってしまいました。
これはいけないと思い、食べ物に気を遣うようにしました。
お魚とお野菜をあたたかく頂いて体をあたためながらキレイにする、ということにポイントをおきました。

お肌ケアも、洗顔したあとの状態をみてその後のステップを考えるようにしました。
たとえば、お仕事でしっかりメイクを長時間していた場合。
毛穴にメイクや皮脂がつまっている感じがするときは、メイクを落とすときもスチーマーをあてて毛穴を開かせながら落とす。
お風呂にもゆっくりつかってマッサージをしながら洗顔する。
そのあとは毛穴収斂効果のある化粧水でパッティングする。
でも、あんまり肌が「まっさら」な状態だと化粧水すら素直に入ってくれないことがあります。
そういうときは、美容液やジェルなどの「やわらかい」質感のものを手のひらであたためながら、顔を包み込むようにしてなじませます。
そのあと乳液にするのか、クリームにするのかは、肌の乾燥度によって決めます。
すると、一週間たったらだいぶ変化が出て、オトナニキビもすっと引っ込み、乾燥も改善されてきました。

季節が変わると同時に色々なものが変わります。
レストランですすめられる飲みもの、お料理、お洋服。
でも、街を歩いていると「絶対変わらない」をウリにする広告もよく目にしますよね。
「絶対落ちないマスカラ」や、「一日中肌がキレイに見えるファンデ」といったうたい文句。
高層ビルなどの建物も、どれだけ長く「変わらず」残り続けるかが大事にされます。
化粧品にしても建築材料にしても新しい素材が日々開発されてゆきますが、どれも「色あせない」「すれない」「よれない」といった「変わらない永続性」をウリにしているようです。

もちろん、地震が起きようが竜巻に襲われようが、建物がしっかりと建ちつづけていることは大事です。
ですが、現代社会は「かわらない」「不変である」、つまりpermanentであることに重きをおきすぎているように思いませんか？
最近、賞味期限の改ざんに関するニュースがつづいています。
そういったニュースを耳にする度に思うことですが、本来「新鮮さ」が何よりのウリであるはずの日本料理や和菓子を大量生産し採算を取ろうとすること自体に無理があったのではないでしょうか。
日本料理のよさというのは、季節の「うつろい」に合わせてお料理をお出しすることだと思うのです。

先日、美食ガイドの最高峰、ミシェラン・ガイドの東京版が出版されるということで「かんだ」という日本料理のお店に取材にうかがいました。
取材中は、星がつけられるのかどうか、ついたとしても幾つつくのかがまったくわからないという状態だったのですが、蓋を開けてみるとなんと三つ星！
たまたま取材をしたお店が三つ星を取ったというのは、取材をした側としても非常にラッキーでしたが、振り返ってみると、主人の神田さんの食への考え方など、世界の一流シェフの中に名前を連ねる資格は十分お持ちだなと思わせるものがありました。

取材でいただいたのが海老と百合根のしんじょのお椀。
さぞや蓋をあけて汁が口の中に入った途端にリッチな味が広がるかと思いきや、一口目は意外にも「あっさり」としていました。
「あっさり」と言うのもどうも気が引けるような気がしましたが、正直に申しあげると、
「一口目はそうなんです。でも、コンソメスープのように一口目からガツンと味が来るものと違って、日本料理のお椀のよさというのは、段々と味が蓄積されてゆく＜知的＞な所にあります。最初はあっさり。でも海老をいただいて、百合根の濃さが加わって、お野菜と、具と、おつゆを交互に口にいれて、全部いただいてお椀をおいたときに、初めてそのお椀の味の全体像を理解できる、そういう料理なんです」と言われました。
なるほど、お椀をいただいているうちに、どんどんと味が変わってゆくのがわかりました。
同時に、体もあたたまってきますから、なんとなく火照ってくる内に、口の中で体験される味も変わります。
お料理の「感じ方」が変わってゆくのです。

フランスの「三つ星レストラン」と言いますと、いわゆる「グランド・メゾン」です。
文字通り「大きな家」という意味。
つまり、かつての貴族の邸宅などを使って、たくさんのギャルソンがいて、厨房とお客様のテーブルの距離がだいぶあるような、そういうレストラン。
先ほど出てきた英語のpermanentは、「永遠に変わらない、永続して残りつづける」という意味です。
実はこのことば、「邸宅」と関係があります。
Permanentはper＝「一貫して」と、ギリシャ語のmanere＝「残る」に分解できます。
このmanereからmansionemというラテン語ができました。
Mansionem、現代日本人にもなじみのある「マンション」のこと。
Mansionはもともと、「領主の主たる館」という意味です。
つまり、大理石などの石でできたどっしりとした邸宅で、王侯貴族の権力の偉大さを証明するために、まさに「永遠に存在しつづける」象徴である建物が「マンション」。
そして今の日本では、「現代技術」の「信頼性」と「永続性」の象徴が「マンション」なのかもしれません。

『三匹の子豚』という西洋の童話があります。
このお話では、草で家をつくった子豚はぐぅたらで、木で家を造った子豚も手抜きをしていて、どんな災害がきてもがっしりとしている石の家を造った子豚が一番偉い、ということになっていました。
このお話でゆくと、茅葺きの家を造る日本人はダメ、ということになってしまいます。
でも、それは西洋の価値観です。
草と木、自然界とコミュニケーションを取りながら、空気を家の中に取り込みながら生活をしてきた日本人にとっては、「永久に変わらないグラン・メゾン」で食べられるお料理とはまた違った「三つ星」の基準があるはずです。

空調で湿度と温度が完全に管理された密閉空間であるオフィスやマンションで過ごす時間がどんどん長くなっている日本人女性。
でも確実に季節は移り変わってゆきます。
美しい肌を保つためには、季節に対して敏感でなくてはいけません。
どんなに空気が乾いていても、どんなに年を取っても、どんなに寝不足でも、「絶対変わらない」肌コンディションを保ってくれる魔法のクリームを求めても、それは幸せの青い鳥みたいなもので、どんなに探しても決して見つからないのではないでしょうか。
季節が変わるとともに、お洋服の色合いも変わります。メイクに遣う色のトーンも変わります。
同時に「肌」も変化している。夏肌、秋肌、冬肌と。
コンディションが崩れるのは、「そろそろお手入れの方法を変えてちょうだいね」というお肌からの黄色信号。
「変わらないもの」をひたすら崇拝するのをそろそろやめて、町中で目に付いた街路樹のコンディションや、電車を待つときに吐く息の白さ、一日を終えたときの自分の心の空模様をじっと見つめることで、今の貴女にとってベストなお手入れが見つかるはずです。
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         <pubDate>Mon, 10 Dec 2007 14:50:28 +0900</pubDate>
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         <title>通勤リフトアップ　笑う＜口角＞に福きたる</title>
         <description>シワ防止に即効性のあるエステや化粧品はないかといつも物色している貴女にグッド・ニュースです。
お金は一切かからず、しかも通勤の時間を活用できて、イヤなことがあってもこれをやるだけで気分も明るくなるという優れもの！気になりませんか？
　
日々、取材にあたるニュースの中には、とても恐ろしい事件や、悲しい事故もあります。
わたしはもともと、出会った人や、聞いた話、テレビで観るドキュメンタリーなどにかなり感情移入する方です。
悲しいドキュメンタリーを観ていると、つい号泣してしまうことも結構あります。
でも、人間の命がたくさん失われた現場での取材は、そこまで感情移入したり、共感してしまうと、仕事にならなくなってしまいます。
災害など、これからさらに被害者が増える可能性がある現場では、報道によって伝えられる情報が地域の人のライフラインとなります。
そんな現場で、取材者が泣いてオロオロしているわけにはいきません。
人々の力になりたいなら、客観的に、ジャーナリストとして、人々に役立つ情報をできる限り集め、素早く視聴者に届けるべき。そう思って、日々の取材にあたっています。
　
ただ、テレビで私を観た友だちに、
「藍佳、いっつも眉間にシワよってるよ（苦笑）」
と言われるたび、ちょっと悩んでしまいます。
ずっと眉間にシワが寄ってるオンナってやだなって…。
そのうち深いシワが刻まれてしまんじゃないかって不安になります。
というのも、小さいころ、変な顔をすると、母によくこう言われたんです、
「藍佳ちゃん、変な顔ばっかりしていると本当にそういう顔になっちゃうわよ。」
でも、悲しい現場でケラケラ笑ってしまうことほど不謹慎なことはありません。
それに、もともと共感しやすい性質なのですから、いくら客観的になろうとしても、どんどん表情が重く、暗く、沈んでいってしまいます。

表情が暗いってことは、きっとココロにも影響があるんだろうなぁって思います。
ココロだけではなく、重たい取材が終わって家に帰るときは、カラダまで重たくなってしまいます。
真剣に仕事をしたからなのかもしれません。
でも！これが続いたのでは最終的にはカラダを壊してしまいそうです。
自分のオツトメをきちんと果たすためには、やっぱり「きりかえ」が大事なハズ！
そう思いながら帰路についたある晩、地下鉄の窓にうつった自分の顔をみてガクゼンとしました。
すご〜く「フキゲン」な、言ってみれば「コワイ」顔をしていたんです。
東京のような大都市の、一日に何万もの人が利用する駅で、すごく「コワイ」顔をした女性に出くわすこと、ありますよね？ズンズン早足で人混みをかきわけ、他の人に自分のカバンがあたっても謝りもせず「チッ！」なんて舌打ちしちゃうような女性。
一体何に対して怒ってるんだろうって感じがする女性。
眉間にシワよってるし、口はへの字口だし。
そういうオンナの人をみると「あ〜ぁ」って思いませんか？
自分がまさにその顔になっている！と、窓にうつった顔をみてショックを受けました。

地下鉄の駅の「コワイ顔症候群」のオンナの人って、２０代、３０代の働き盛りで、スーツを着た女性に多い気がします。
男社会のなかで、孤軍奮闘している女性がたくさんいらっしゃいます。
「若さ」と「オンナであること」はハンディキャップにしかならないような環境で頑張っている女性、いっぱいいらっしゃると思います。
ちょっとイヤなことがあったとき…取引先が急にクレームを付けた、とか、上司が不公平な評価をしている、とか。色々ありますよね、働いていると。
だからついつい「コワイ顔」になっちゃうと思うんです。

でも、自分の「コワイ」顔をみて思いました、これって「コワイ」だけじゃなくて、「ブス」だなって。
しかも、表面的に「ブス」ってよりは、なんかココロの中の、暗かったり、重かったり、汚かったりする感情が、表ににじみ出てしまっている…つまり「内面ブス」が外に出ちゃってる感じです。サイアクです。

そこで、自分の顔をみながら、ある意味「むりやり」に、口角をぐいっとあげてみました。
そうしたら、一気に顔の表情が明るくなった。
ついでに頭をちょっと引き上げて、肩をぐいっと後ろに引いて、背筋を「しゃんっ」と伸ばしてみた。
自分の姿がずいぶんすっきりして見えました。

先日エステに行ったときに、トリートメントを担当してくださったエステティシャンのＩさんが、とっても耳よりな話しをしてくれました。
Ｉさん：　「帯状毛穴ってありますよね？毛穴が縦にのびてしまって、＜しずく＞みたいな形になってしまうもの。あれが＜たるみ＞と＜シワ＞の犯人なんです。毛穴が伸びて、そのうち細かいシワになり、いつかは深く刻まれるシワになってしまうんです」
七尾：　「どうして伸びちゃうんですか？」
Ｉさん：　「筋肉がおとろえるからです。支えられなくなっちゃって、毛穴が下に垂れ下がっちゃうんです。だから帯状毛穴・シワ・たるみ、を防ぐには、筋肉を鍛えるのが一番いいんです」
七尾：　「でも顔の筋肉って鍛えようがないですよね？」
Ｉさん：　「いえ、ちがいます。笑えばいいんです。いつも笑っていることが、一番のシワ対策なんですよ。笑うと表情筋が鍛えられますから。いつもくらぁい顔をしていると、どんどんお肌もたるんで、シワばっかり増えちゃいますよ。だから私は、いつもちょっと口角をあげるようにしています」
そこでＩさんの顔を見ると、ほんとだ！口角がキュッとあがっているではありませんか！それとともに、アゴまわりのフェイスラインも、なんだか引き締まっている！全体的に「明るい」印象！すてきです！
そこで私はＩさんに言いました、
「これからは通勤中に、ずっと口角を上げるようにしてみます！」

エステを終え、帰りの電車の中で早速実践してみました。
キュっと口角を上げてみる。
その口角の位置を「キープ」するのです。貴女もぜひやってみてください。
もし、一駅が過ぎたころ、口のまわりの筋肉が「ピクピク、ヒクヒク」と震えはじめたなら、あなたはかなり重度の「コワイ顔症候群」です。
それだけ、笑顔をつくる「表情筋」がナマっているってこと。
もし、何駅か過ぎても「結構へ〜き」って感じだったら、貴女は普段から「笑顔美人」ってワケです。

最初のうちは「一人で笑ってるアヤしい人」って思われないか心配だったんですが、実際にやってみると、「ちょっと明るい表情をしている人」くらいにしか見えないから大丈夫です。
要は、「電車は＜ブスっ＞とした表情で乗るモノ」っていう間違った常識がまかりとおっちゃっているのが問題なのです。
別にニコニコしながら電車に乗ったっていいのです。

すると、以前は「満員電車イヤだなぁ、なんか寝不足でつかれてるなぁ」って思いがちだった朝の通勤電車の中でも、外の風景をながめたり、楽しいことを考えたりするようになりました。
ちょっとつらくなってくるまで口角をあげて、それから少しほぐして、また上げる、という運動を繰り返すのが一番効果的。この「通勤口角上げ運動」のおかげで、普段から「笑顔」が出やすくなったように思います。
そして！驚くべき、目に見える効果が！なんだか最近、すこし顔色があかるくなったような気がする！顔の筋肉を動かしてあげることによって、血行がよくなったのでしょうか？！
「気のせいだよ」と言われるかもしれません。
でも「病は気から」と言いますし、気分だけでも顔色が明るくなった気がするってことは、実際に「くすみ」が取れたってことにつながるハズです。

ヒアルロン酸もボトックスも高周波もなんのその、この「通勤リフトアップ」を続けて、デフォルトで「笑い顔」をゲットすればまさに、笑う＜口角＞に福きたる！です。



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         <pubDate>Thu, 25 Oct 2007 16:14:23 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>朝が苦手な人は寝支度美人をめざそう</title>
         <description><![CDATA[貴女は「朝」は得意な方ですか？それとも苦手でしょうか？
先日、スターバックスのウェブサイトで掲載されるインタビューを受けました。
スターバックスがホットケーキなどの新しいブレックファスト・メニューをご紹介するにあたって、忙しい朝にスターバックスを利用している人の朝の過ごし方を聞く、という内容のインタビューでした。
おそらく、「フィールドキャスター」ということで忙しい日々を送っているであろう、そしてきっと朝の時間に関しては達人であるに違いない、という印象を持たれていたのだろうと思います。
ただ！問題は、私は「朝が大の苦手」であるということ。

小さいときから「宵っ張り」と言われ、なかなか寝付かない子供でした。ほんの少しの物音でもすぐ目が覚めてしまうから、寝起きがやたらと悪い。
だから学校にも遅刻する。
中高時代はあんまり遅刻の常習犯だったので、そのうち、七尾さんはしょうがない、っていう感じで先生方に見のがしてもらうことが多かったほど。

朝出かける時は、メークとヘアセットと洋服選びになんだかんだ言って一時間はかかります。
朝ご飯の時間を削ってでも、やっぱり女性はきちんとメークして、身だしなみを整えて出かけたいですよね。
世の中「ロハス」といったスロ〜でステキ〜なライフスタイルがブームですが、はっきりいって働く女性にそんなライフスタイルを「平日に」謳歌している暇なんてないと思うのです。
もちろん、きちんと仕事もこなして、朝からステキなライフスタイルを謳歌されている方もいらっしゃると思います。

ただ、やっぱり私は根っからのダメ人間なので、もともとそんなに頑張れないし、頑張りたくないというのが本音。
取材時間が延々のびて、テレビ以外の物書きの仕事がどんどんたまっていくことがある。移動時間には必死に情報収集、携帯電話で最新ニュースをチェックしたあとは、次に書評を書こうと思っている本に目を通す。今日は早めに仕事が上がったな、と思っても、パソコンの前に座ると色々と考えないといけないこと、返事を打たないといけないメールがあるわあるわ！
そんな日々なので、「ちょっと空いた時間」ができると、とにかく「気分転換」に使いたい。私の手っ取り早い「ハッピー」になる方法、それは買い物・マッサージ・マンガを読む、そして睡眠ですね。
もちろん、読書もダイスキなんですが、いろいろ考えてしまう。
買い物・マッサージ・マンガのよいところは、ナンにも考えなくてよいところ。
ぼぉ〜〜っとしていても楽しい。
アメリカの女性を対象にした<a href="http://www.nytimes.com/2004/12/03/health/03mood.html?_r=2&oref=slogin&oref=slogin">ある研究</a>
によると、女性のリラックス方法で最も人気のあるものが「テレビを見る」と「ショッピング」だったそうです。
そして、人が日中、不機嫌になる二大原因は、「仕事の締め切り」と「不眠」だそうです。興味深いのは、寝不足だと、お買い物をしていてもテレビを見ていてもリラックスできない、と感じる人が非常に多かったこと。
まぁ、当然と言えば当然ですが、やはり先立つものは（？）「睡眠」なのです。

ところで、前の日、遅くまで起きていた次の日は、たいてい寝起きが悪いものです。
私の場合、はっきり言って単純に自業自得のことが多いようです。
なぜ、なかなか寝られないのか？さっさと自分の部屋に入って、ベッドに横になり次第すぐ眠りに落ち、翌朝５時半に起きてジョギングをしている姉と私を比較してみたところ、決定的な違いが判明しました。それは！
「寝支度をはじめるのが遅い」
ということなんです。
「当たり前でしょ！」というつっこみが入りそうですが、実は女性の「寝支度」って結構めんどうくさいもの。
マスカラを落とすのに一苦労だし、髪の毛は完全に乾かさないと痛むし、いろいろトリートメントとかヘアクリームとかつけないといけないし、スキンケアも時間がかかるし。
テレビを見ながらフルーツを食べたりすると、どんどん歯を磨く時間が遅くなり…。
その日着たスーツや靴も多少お手入れをしないといけないし。
次の日の朝、通勤途中にクリーニング屋にあれ持っていこう、これも持っていこう、郵便局の支払いも済まそう、あれ数日前の日経新聞の特集おもしろそうだったから読みたかったんだよな、どこにいったんだろう、ガサゴソ、ガサゴソ、何てやっている内に、「夜のお時間」はエンドレスにのびてゆく。
結果的に寝支度を始める時間ががズレ込ん行ってしまう。
そんな私を尻目に、姉はさくっと「おやすみ〜」と寝てしまいます、まさに「おやすみ三秒」。

どんなに高いナイトクリームを使っても、やっぱりたっぷり取った睡眠時間の効果には勝てません。ということは、私がやっていることは本末転倒。
原因をつきつめると、恥ずかしながら私は、「寝支度」をはじめるのが面倒くさい、ということがあるようです。
でも、そのせいで翌朝の気分がすぐれなかったり、お肌の調子がイマイチなのは許せません！それに、寝支度をスパっと済ませて早く寝る！というのは、ちょっとした努力ですぐ実現できることのはず。

もし貴女も、私のようにムダに夜の時間をだらだらと引き延ばしてしまいがちでしたら、いつもより３０分でも早く「寝支度」を始めてみませんか？
明日の朝はすこうしだけハッピーな気分で迎えられるかもしれません。
]]></description>
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         <pubDate>Wed, 03 Oct 2007 13:58:11 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>うどん」と「蕎麦」を空気で伝える</title>
         <description>もう秋の匂いを風の中に感じる今日このごろ、皆さまはいかがおすごしでしょうか？
夏休みの疲れがちょうど出始める頃ではないでしょうか。
私はお盆のちょっと前にお休みをいただいておりました。
それから取材で海外出張が一週間ほどありました。

結構ハードな取材で、帰ってきてから軽い腸炎になり、高熱にうなされました。
行く前にその国の取材は「ハードだよ！」とさんざん聞いていたものの、帰りの便のなかでディレクターがひどい腹痛にうなりだし、とうとう私ともう一人のスタッフがフライトアテンダントの誘導により前方の空いている席に移動させられ、横一列空いた席にディレクターが横になったときには驚愕しました。
ただ、そのディレクターが、ひょうひょうとしていて、とても「ポーカーフェイス」な方なので、スタッフと「まさか彼が…本当に珍道中だなぁ」と苦笑した次第です。
海外から帰ってきて、同行者が検疫のお世話に並ぶのを初めて体験しました。
ところが、一夜明けた早朝、高熱にうなされたときには「ヤバイ！ちょっとディレクターのことを笑ったバチがあたった！」と思いました。
それから病院に直行。
血液検査やら、胃のレントゲンやらで大わらわ。
高熱で動けないので、病院内の移動は車椅子。
家族につきそってもらったのですが、ひたすら「笑えない〜」を連発していました（笑）。
幸い、感染症ではなく、何らかの菌がはいって、腸が軽い炎症を起こしている、とのこと。
先週後半はお休みをいただいたので、大分回復しました。やっと復活できます。
まさに「体当たり」取材だったなぁ、と実感しました。

海外出張をのぞいては、基本的には8月はあまり忙しくはありませんでした。
「8月は暇な月」と報道の世界では言われています。
特に、国会が閉会してからは、政治ニュースにはまったくといっていいほど動きがありませんでした。
もちろん、選挙前後の動きは怒涛のように過ぎてゆきましたが。
その暇っぷりを実感したのがお盆休みのときの「立会い」でした。
日テレの報道局では、ニュースを決めるミーティングのことを「立会い」と呼んでいます。
政治部、社会部、経済部、外報部といった「記者」がいる各取材部の「デスク」（まぁ部長補佐にあたる人々、みたいなものですね）が、報道局の「センターテーブル」に集まって、マイクを通してその日に入っている主な「ネタ」と取材状況を報告しあいます。
このセンターテーブル、夕方の「ニュースリアルタイム」の後ろにうつっています。
日テレの報道フロアは市民体育館のように巨大なので、そこらじゅうに小さなスピーカーが配置されています。
離れたところに座っていても、このスピーカーを通して、大体どういうニュースが注目されていて、カメラマンと記者が取材にあたっているかどうかといったことを知ることができます。
わたしはこの「立会い」が「市場のセリ」に似てるなぁ、と思っています。
ねじり鉢巻をしたデスクたちが、大声で「いいニュースはいってますよ〜！」「さぁどうぞどうぞ見てってね〜！」「これは夕方のニュースにいいんじゃないか〜い！」「このネタはイキがいいよ〜！まだうちにしかはいってないよ〜！独自ネタだよ〜！」みたいな感じで…。

いつもは最低三十分はかかるこの立会いに、お盆休みに異変が起きました。
「経済部です。え〜、今日は…何もありません」
そしてマイクが渡されます。
「政治部です。何も、ありません（苦笑）」
お〜！と思いました。なるほど、企業も「夏休み」に入っているので、新しい商品の発表などもないわけですね。
官庁も同様にお休みなので、大した動きがないわけです。
いつもは基本的に「ぴりぴり」した空気がただよっている報道フロアも、このときばかりはなんとなくゆるやかモードでした。
やっぱり時には「息抜き」が報道でも必要です、みんな人間だし。
それに、世の中が「夏休みモード」に入っているわけだから、その「空気」に合わせるのも実は大事だったりするのかもしれません。

空気と言えば、「KY」という言葉がはやっていますね。もともとは、ギャル言葉だったらしいんですけど、私は、週刊誌が組んだ「空気読めない（KY）安倍総理」という特集ではじめてこの言葉を知りました。
「場の空気を読む」というのは、社会人にとってとても大事なことですよね。
特に、働く女性にとってはさらに必要不可欠なことのように思います。
どれだけ女性の社会進出が進んでいると言われても、やはり基本的に日本はまだまだ男性社会。
この「場の空気を読む」って、英語で何ていうのかなぁ、と考えていたら、どうもうまい訳が見つかりません。
「雰囲気」はambient や atmosphereですがこれは「お店」などの「雰囲気」です。
Moodは人にも使いますが、”he was in a bad mood” （「彼の機嫌は悪かった」）という風に基本的には「個人」に使います。
もちろん、「会議」などの全体的な場所でも、”there was a bad mood in that meeting”（「あの会議には悪い空気が流れていたね」）と使うこともありますが。

ちょっと近い単語だとsense~がありますね。「気持ちを察する」は”sense (someone)’s feeling”と言います。
Senseは「感覚」という名詞でもありますから、「場の空気を読む」ためには感覚的にならないといけないというところからも、結構いい線行っているのではないでしょうか。
一番近いのは、read between the linesという慣用表現。
国語の授業でよく「行間を読みなさい」と言われましたよね？それと同じです。
口には出されていないけれど、でも確実にそこにあるものを感じ取らないといけない、ということです。
だから、「KYな人」は、”someone who can’t read between the lines”　となります。

ニュースの現場にいて、色々な場所、人を取材していると「伝えられないこと」と「伝えられること」があるな、ということを非常に強く感じるようになります。
それは、たとえばそのときの「時代の空気」が「右寄り」なのか「左寄り」なのか、ということにももちろん左右されます。
あと、報道独自の「立場」として、使える表現と使えない表現があります。
たとえば、「明日にも本格捜査」とよくニュースで聞きますよね。
これは「事実上の逮捕」の場合がよくあります。
でも、警察側が、「逮捕」を捜査活動を進める上で公表してほしくない場合は、「本格捜査」という言い方をする、という暗黙の了解があります。
記者と警察などの情報源の信頼関係のもとに成立している了解。
報道に限らず、仕事上の関係にはそういった信頼関係がありますが、日本での報道は、特に「記者クラブ」という制度があることで、「外」にはなかなか情報が入ってこないということから、海外のメディアに批判されることがよくありますね。
ただ、現場にいて感じることですが「記者クラブ制度」は大分ゆるくなってはきていると思います。
一番厳しく残っているのは政治と官庁の「記者クラブ」です。
もしかするとこれは日本人が一番この二つの世界が「旧態依然としている」と感じていることと一致するのかもしれません。

何か事件が発生して、私が生中継リポートを担当するときに、番組のプロデューサーなどから必ずと言っていいほど言われることがあります。
「現場の空気を伝えてくれ」
これが一番むずかしい（苦笑）。
そしてもうひとつ、「視聴者目線で」。
つまり、私はみなさんの代わりに「現場」に行っているわけだから、「普通の感覚」で何が一番知りたいことかを伝える。
そして、わかりやすく言えば「新聞」で書かれる記事の「行間を伝える」文字通り、read between the linesをする、ということなんです。
私が育ててもらった場所である「ラジオ」は、「視聴者と近いメディア」だと言われています。
一度、ラジオの番組で「みなさんはどうお考えですか」と言ったとき、あとでプロデューサーにこっぴどく叱られたことがあります。
なぜだと思いますか？
それは私が「みなさん」と言ったからなんです。
そのプロデューサーの言い分はこうでした。
「ラジオは一人で聞くものだ。一対一のメディアなんだ。だから＜みなさん＞なんて不特定多数の言い方はするな。いつも一人の人に語りかける気持ちで＜あなた＞と言わなきゃだめだ」。
なるほど！と思いましたね。

考えてみると、このコラムも、「あなた」と言ったり、「みなさん」と言ったり、あんまり一貫していません。
知らない間に「ラジオ」における「近さ」を私が忘れてしまっていたのかもしれません。
最近、車をよく運転するようになったので、ラジオをよく聞きます。
すると「みなさん」というパーソナリティと、「あなた」というパーソナリティがいます。
たしかに「あなた」と言われたほうがなんだかちょっと嬉しい気がします。
様々なメディアのなかで、どんどんテレビの力が強くなっていった20世紀後半、ラジオで喋る人たちも知らず知らずのうちにテレビの影響を受けて、「あなた」から「みなさん」と言ってしまうようになったのかもしれません。

テレビでは「映像」で「場の空気」を伝えられますが、ラジオはパーソナリティやアナウンサーの「喋り」が勝負です。
落語では、「＜うどん＞と＜蕎麦＞の違いを表現できたら一人前」と言われているそうです。自分の喋りと表情、身振りひとつで＜うどん＞か＜そば＞かを伝えるとは、これはまさに「空気」を伝えることに他ならないのではないでしょうか。

こんなことを書いたのも、実は私が腸炎になった国の取材について、今の段階では「オトナの諸事情」からはっきりとは書けないのですが、ひそかに腸炎の原因となったのが「うどん・蕎麦」ならぬその国の名物のとある「麺」料理を食べたからではないかと疑っているからです（笑）。
また、公表してよい段階になったとしても、その国のことを伝えるには、いろいろな配慮が必要になってきます。
どう表現すれば、私が見て、そして感じた「空気」を伝えることができるのか、今、思案している最中です。

なんだかヌードル状の長いものがとぐろをまいたようなまどろっこしいコラムになってしまいましたが、いずれにせよ、「伝えられること」と「伝えられないこと」の間を行き来する難しさについて深く考えさせられる取材でした。
これからも、常に「うどん」と「蕎麦」の違いを伝えることができる表現者を目指し続けたいな、と思います。

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         <pubDate>Mon, 10 Sep 2007 10:51:20 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>　「二十代後半＜働く女＞の＜鈍感さ＞と＜繊細さ＞のちょうどいいバランスって？」</title>
         <description>突然ですが、あなたは毎月必ず買う女性誌ってありますか？
bloomingmarket に立ち寄られる方ですから、もしかすると何冊も買う雑誌があるのかもしれないですね。
わたしも、時には発売日によって月に数冊買うこともあります。
ただ、女的に怠けていると、というか、「女センサー」みたいなものが鈍っていると、まったく買わずに何か月も過ごしてしまうこともあります。

先週、久しぶりに比較的コンスタントに買いつづけている女性誌を購入しました。
ページをめくっている内に気が付いたことがあるんです。
ずっと「ちょっと憧れ」なお洋服や化粧品を掲載している雑誌だと思っていたのに！
ページをめくってもめくっても、「ちょっとこれって子供っぽすぎて着られないなぁ、しかも２９歳になったからこれだと安っぽいと思われちゃうかも…」と感じるお洋服ばかり並んでいる。
知らない間にターゲット読者層を変更したのかしら？と思ったりもしましたが、そんなことも無い様子。
どうやら、いつの間にか私が年を取っていた、いや、この言い方はやめましょう（苦笑）、「オトナ」になっていたようなんです。
でも、ほんの半年前はフツーに読んでいたはず。
思うに、ちょっとした出来事がきっかけで、「オトナの階段」を上るってことがあるのではないでしょうか。

最近、近所のＴＳＵＴＡＹＡでマンガレンタルが始まったので、おかざき真理さんのテレビドラマ化された『サプリ』を借りました。
主人公、藤井ミナミは大手広告代理店でＣＭ制作を手がけ、徹夜つづきの日々を送っている２８歳、彼氏ナシ。
読んでいて、「おっ！」と思ったセリフがありました。
主人公の同僚で、オカマのアートディレクターの三田さんが言った言葉です。
「若い女ってキライよ。あいつら素直とかホンネを本気で美徳だと思ってやがるのよ」
むむむ。というのもこれは、ミナミの下に、新入社員がついた時のセリフなんですね。
いわゆる「研修生」で、ミナミはトレーナー。
クライアントとクリエーターの間をとりもち、お腹がキリキリするような状況を、何とか笑顔で切り抜けてゆくミナミの姿を新入社員は、「笑ってるだけなのに、忙しそうにしてる」と一刀両断。
社会人になりたての彼女には「女」が「働く」、ということがどういうことなのか、そこにどんな辛さや悩みがあるのか、まったくわからないわけです。
そんな新入社員を見て、また別の先輩女子社員がこうつぶやきます。
「私も５年前ああだったんだろうな。５年かけて消したものを見せつけられているようで、ハズカシイ。だから新人てキライ…」。
　
３０歳前後の働く「女性」達には、多かれ少なかれこういう経験ってあるのではないでしょうか。
新人に対して「キライ…」って思ってしまうのは、言ってみれば近親憎悪なんでしょう。それは、「素直さ」とか「純粋さ」とかを失ってしまったことに対する悲しみなんだろうか、それとも、「汚れちまった」自分に対する苛立ち（笑、なんだかクサイですね）のようなものなんでしょうか？
何となくそのどちらでも無いような気がします。

最近、私がもうひとつ感銘を受けた本があります。
渡辺淳一さんの『鈍感力』。
小泉前総理大臣が引用して話題になったベストセラー。
渡辺さんは、繊細すぎて、色々なことを気にしすぎて、才能を発揮することなく消えてしまったかつての作家仲間のことについて書いていらっしゃいます。
彼には、本当にほとばしる才能があったということ。
彼を思い出すにつけ渡辺さんは、他人のことを気にしすぎずにひたすら自分のやるべきことをやるための「鈍感力」も「才能」の一つなんだと実感する、というのです。
元々医師でいらっしゃった渡辺さんの言葉には説得力があります。
アレルギーだって、敏感すぎていいことがないでしょう？と。
確かに私自身もアレルギー体質ですが、どんなにほこりっぽい所にいっても、ネコがいても、平気な顔をしている姉をずっとうらやましく思ってきました。

繊細さって、文学青年らしいガラス細工のようなものとして、どちらかと言えば評価されてきた特性です。
でも、現実社会では繊細過ぎると生きていけません。
そして、「素直さ」と「若さ」と「愛嬌」だけでは無理だ！ってことを痛感するのが２０代後半なのではないでしょうか。
「まだいけるかも」と思ってる内に、にっちもさっちもいかない「壁」にぶち当たる瞬間が必ずくる…。

私は、見た目の印象からなのか、バックグラウンドからなのか、政治家に体当たりインタビューする姿や、付け焼き刃のハングルで北朝鮮船の乗組員に大声で「経済制裁どう思いますかーー！」と問いかけて激怒される姿（笑えない…）が与える印象からか、よくわからないんですけど、とにかく「たくましい」、言ってみれば「鈍感」という印象のほうが強い人間みたいです。
本当はお酒には弱いのに「飲みそうだよねー」って言われたり。本当は運動音痴なのに「運動神経よさそうだよねー！」って言われたり。
でも女の子って、どちらかといえば「弱くて守ってあげたい」と思われたいワケですよ。だから、たま〜ぁに、「七尾さんは本当は繊細なんだよね」って言ってくれる人が現れると、「キタァーー！！あなたわかってるーーぅ！」って感じです。

もちろん、ある程度の繊細さを持ち合わせていないと、どんな仕事もつとまらないハズです。
私の仕事で言えば、千差万別のバックグラウンドの人に話を聞きに行くわけだし、場の空気が読めないと取材が成立しないこともある。
ただ、いざって時は周りの空気もなんのその！と爆進する強引さも持ち合わせていないと、これまた取材がポシャっちゃう。要するに、「繊細さ」と「鈍感さ」の「バランス」が大事。そしてこれが何よりも難しい…。

新潟県中越沖地震の取材を、柏崎市内の避難所でしていたときのこと。
まさに「民放の顔」的な、あるベテランのキャスターが現場にいらっしゃいました。
彼が、なんとも表現するのが難しい、独特の雰囲気を現場でかもしだしていらっしゃる。
「ひょうひょう」としていて、「仙人」みたいな感じ。
避難されているおじいちゃんおばあちゃんや、子供たちに話しかけている様子が、まるで長年彼らのそばにいたかのようで、みなさん、そのベテランキャスターと至極「ふつう」にお話をされている。
カメラが回っている時も、回っていないときも、彼はその調子。
彼の中継を見たとき、すごいなーと思いました。
とても落ち着いて、的確に、かつ情感もある素晴らしい中継をされていました。

炊き出しの料理のなかに、「揚げ物」があったことについて、作業の陣頭指揮を取っていた漁協組合の支部長さんと私が、こんな会話を交わしていたときのことです。
七尾「炊き出しで揚げ物って珍しいですよね？」
支部長さん「うん。この辺は漁師が多いからね、地元の小学生は総合学習で漁師さんとこにいって、一緒に魚とかイカののすり身を作ってね、揚げ物を作らせてもらうんだよ。だからみんな作ったことがあるわけ」
七尾「ああ！だからさっきお子さんが『わーい！揚げ物だー！』ってすごく喜んでたんですねー！」
私は妙に納得したというか、ただ単純に「なるほど〜」と支部長さんのお話に感心していたのです。
それは、震災とは関係なしに、「支部長さん」と「私」という、違うバックグラウンドを持つ人間が交わしていた「普通の会話」だったのでしょう。
ちょうどその会話を交わしていたときに、例のベテランキャスターの方が私たちの横を通りました。
そのとき、彼は私をみて「ふふふっ」と笑ったんです。
なんとなく、何で彼が笑ったのか、直感的にわかったような気がします。
私の勝手な解釈という可能性ももちろんありますが、私は彼に、「そうだよ、君はそれでいいんだ」と言われたように感じました。
それこそがつまり、「鈍感」と「繊細」のバランスだったのではないかと。
大変な思いをされている被災者の方々に対しては、もちろんいろんな気配り、気遣いが大事です。
でも、彼らは彼らで「非日常」の中に、何とか助け合って「日常」を保とうと努力をされているわけで、「気を遣う」ことが逆に被災者の方の負担になってしまうことだってある。端的に言うと、「私たちは人間なんだ！見せ物みたいに扱うな！」ということです。
私が避難所の方とふれあったのはほんの二日間だけでしたが、それでも何となくみなさんと仲良くなっていて、少し受け入れていただいていたように思います。
私は、色んな国を転々としたせいか、どこでもずけずけと入り込んでいつの間にかとけ込んでいる、という環境適応能力だけは身に付いています。
日本全国津々浦々、取材で回りますが、その中でこの能力だけは身に付いていてよかったな、と実感します。

「素直さ」だけだと無神経になってしまうことがある。
「計算」しすぎても、「気を遣い」過ぎても、逆に相手の神経を逆撫ですることがある。
ＴＰＯに応じて、素直さと、繊細さと、鈍感さを「配分」する。
それは「したたかさ」とも呼ばれるものなのかもしれませんが、言ってみれば「オトナ」のたしなみ、でもあります。
あぁでもきっとこの文章を５年後に読んだら、「なぁ〜に青クサイこと言ってんだ！」って即効削除したくなることでしょう。
まぁ５年後の心配は５年後にするしかないですから、ひとまず今を頑張ろう、ということで、またこれからもよろしくお願いします。


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         <pubDate>Wed, 25 Jul 2007 13:50:25 +0900</pubDate>
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         <title>気づかれない「セクシー」の秘密をペッパー・デニスに探る</title>
         <description>「七尾さん、メークとか衣裳はどうされるんですか？」と聞かれることがあります。
基本的には「自前」です。
スタジオに入る場合は、ヘアセットだけはメークの方にやっていただきますが、大抵は外で仕事をしているのでほぼ自分でやりますね。
スタジオに出演される方も、メークは自分でやるという方が多いです。
私が生放送で出演するのは、大きな事件が発生した時、現場からの生中継になるので、メークどころの騒ぎではありません。

まず第一報が届き、「うわ！大事件だ！」ということで現場になるべく早く着くようにドタバタです。
現場に着いたら着いたで、あちこち走り回って、目撃者や関係者のコメントを取るべくガンバります。
夜８時、９時くらいにはいわゆる「取材」は終わることが常ですが、たとえば「立てこもり」などの現在進行中の事件は取材が終わることはありません。
そのまま生中継まで突入です。
直前に記者会見が開かれたりすると、もう本番ギリギリまで会見場にいて情報をゲットして、飛び出して中継にのぞむこともあります。

ただ！やっぱり女の子ですので、私は本番中継前のどこかの段階で「化粧直し」を怠りたくありません。
一度、警察の会見会場で、広報担当の副署長を待っている間に化粧直しをしていたことがあります。
かなり周りの記者から浮いていたかもしれませんが、それでも屋外で長時間過ごしてお化粧もドロドロの状態を画面にさらすワケにはいきません。
私の顔をテレビで見て「気分悪くなった」なんてことがあったら大変です！
ただ、記者会見の時は、やっぱり「ここでするのはかなりヒンシュクかな…？」と反省し、警察署の階段の上の方、あまり人が通らないところに座って化粧直しをしました。

そんな私が最近ハマっているのが『恋するアンカーウーマン』というアメリカのドラマ。
「アンカー」（スタジオに座ってニュース番組を仕切る人。日本でいう「メインキャスター」ですね）を目指し、ペッパー・デニスという容姿端麗、頭脳明晰なニュース・リポーターが毎回大活躍する、という設定。
だけどこのペッパー・デニス、たしかに優秀で特ダネもたくさん生むけれど、気が強すぎていつも空回りばかりしています。
でも、その姿が女子の共感を呼ぶんです。
ペッパーが失敗を重ね、「どうして私はダメなの？！こんなに頑張ってるのに！」と叫び続ける姿を見ると、「そうだよね〜、頑張りたいのに空回りしちゃうよね、でも本当はいい仕事がしたいってだけなのにみんな分かってくれないのよ〜！」と、いつの間にか自分を慰めている私がいます…（苦笑）。

彼女のファッションがまたゴージャス。
ヒールは常にかなり高いです（ちなみに私は基本的にはローヒール。やっぱり現実にハイヒールは現場では無理ですね）。
マノロ・ブラニクとか、その辺りのブランドを履きまくっています。
スーツはDolce and GabbanaやVersace。
イタリアン・ブランドのスーツ・ジャケットはカットがとにかくかっこいい。
ペッパーを演じるレベッカ・ロミジンさんは、元スーパーモデルなので長身、と〜ってもグラマラスな体型で、肩は結構がっしりとしていて、全体として「デカい！」という印象を与える美女。
そのがっしりとした肩だからこそ、ジャストサイズのイタリアン・ジャケットを羽織るとものすご〜くかっこいい！

日本で「報道」という看板を背負っていると、ちょっとネイルの色やアクセサリーが派手なだけで、視聴者から苦情が来たりすることがあるので、気を付けないといけないのですが、アメリカはその辺りが結構大らかなようで、ペッパーのファッションは実にカラフル。
もちろん黒のパンツ・スーツでびしっと決めることもありますが、明るい色の、体の線がくっきりと出て、しかも襟ぐりが大胆に開いているトップスを着たりもします。
時にはタイトなスカートにハイヒールで、走る、走る！汚職のネタをつかんだ政治家への「アタック」では、果敢にも政治家が乗った高級車のドアにマイクを突っ込み、何とかコメントを取ろうとしますが、なんと車はペッパーを振り切るために走り出してしまい、ペッパーはマイクごと引きずられてしまいます！
最後はあろうことか道路脇の水たまりの中に置き去り…。あぁDolce and Gabbana…。

普通、そんないかにも高そうで派手な服着て「張り込み」（容疑者などの姿を撮影するために自宅の外などで待ち伏せすることですね）なんてしないだろ〜！というつっこみを入れたくなりますが、全身１００万円は下らないと思われる洋服が汚れるのもお構いなし！と、スクープめがけて爆進するペッパーの姿は爽快で癖になります。
いつ見ても完璧なヘアセット、メーク、そしてファッション。
なのに！「女っ気」ゼロ。
女っぽさでは売ってないのに、誰よりもセクシー。
自分が持っている素材を活かしてないわけではない。
でもこれみよがしではない。
確かに露出度は意外に高かったりするのに、でもイヤらしい感じが全くしない。これってどういうこと？！って考えこんじゃいます。

この「ペッパー・デニスの謎」を解く鍵は、ハリウッドでのアカデミー賞取材時に出会った多くのレポーター（アメリカでは記者のことを「レポーター」といいます、つまり「リポート（報告）する人」、ということですね）にあるように思います。
ＡＢＣやＣＢＳの、世界的に顔が売れていて、スタジオから「アンカー」としてニュースを伝えることもある人達が自ら取材していて、きらびやかなファッションに身を包み、メークもばっちりなんだけど、中継時間まではカメラマンと音声マンと二人三脚で走り回って、額に汗を浮かべて「コメント録り」（関係者などのコメントを収録すること。中継の中にインサートされるＶＴＲので「取材しました」という感じで使われる）をしている。
でも、いざ生中継、本番です！ってときには、さっきまでの泥臭い姿が同一人物とは思えないほど涼しげな姿で、タキシードのポケットに手を突っ込み、悠然とインタビューをし、最新情報を世界中に向けて報告しています。

「テレビ・ジャーナリズム」が誕生した国、アメリカ合衆国のトップのレベルの高さを思い知らされました。
つまり、彼らには「実力」があるから、きらびやかな外見を素通りして彼らの「コトバ」に耳を傾けたくなる。
彼らが「伝えよう」としている話しがどんな話しなのか、彼らの「ワザ」によってついつい聞きたい気持ちにさせられる。
でも、ふと客観的に見てみると、彼らは外見や、表情、手の動きなどにものすごく気を遣っていることがわかる。つまり、完全武装しているんです。
表面的なところにも細心の注意を払っているのに、それが悪目立ちすることなく、アイシャドウの色から「瞬き」一つに到るまで、自分が「信頼できて、好感を持てる優秀なリポーター」であると視聴者に思わせるために働くよう計算されているような気がします。
それくらい、実際に彼らが「リポート」しているところを「生」で目にすると圧倒されます。

場違いなファッションや、カメラマンなどの足手まといになってしまうヒールの高さはもちろん避けるよう気を付けたいと思っています。
ただ、どんな現場でも常に「女らしさ」を保てるように、保つどころか、いかんなく発揮してやる！ぐらいの気合で（笑）いくべきである！と『ペッパー・デニス　恋するアンカーウーマン』のＤＶＤを見ながら強く思う今日この頃であります。（ただ、そのＤＶＤを見る姿はパジャマでソファに横になりながらタイムセールで買った御菓子をつまんでいる…というまさに「干物女」そのものなんですけどね…）。

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         <pubDate>Mon, 25 Jun 2007 17:56:51 +0900</pubDate>
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         <title>レディーはワインを注ぐなかれ？</title>
         <description>何が正しいエチケットか、そうでないかを判断するのは、とても難しいものです。
取材で千差万別の御職業、御