マナーについて: 鼻をすするべきか、かむべきか

私は30歳にして頑固オヤジのようにマナーにうるさい人間になってしまいました。
それは、マナーで痛い思いをたくさんしてきたからです。
マナー、エチケット、礼儀・礼節、躾。
躾に関してはとても厳しく育てられたと思います。
ただ、跳ねっ返りなものだから、親の言うことをなかなか聞かない子どもでした。
それでも、厳しく叱られたことは大人になってから思い出します。
ああ、親が言っていたことはこういうことだったのか、と自分で気が付いた瞬間というのは、どうにもバツの悪い感じがします。

小さい頃、家のドアを「ばたん!」と乱暴に閉めると、父親にひどく叱られました。
ドアぐらいバタンと閉めればいいじゃないか、というより、ドアは閉めるものなんだから、と思って反抗していました。
バタンとうるさくしめると、静かに静かにもう一度閉めさせられました。
でもうちの父親は結構うるさくドアを閉めるんですよね。
だから「何で自分でできない人に言われなきゃいけないんだ!」と憤慨していました。

電話機を「がちゃん!」と乱暴に置く人が多いように思います。
私が通っていた(日本の)中学では「道徳」という授業で
「電話は自分からかけた場合は相手が受話器をおくのを待ってから置く。受話器を置くのも静かに置く」と教えられました。
「道徳」といっても女子校なのでいわゆる「花嫁修業」みたいなもので、「○○するべきである、○○するべきでない」という、細かい形式上のルールをたくさん教わります。
大上段に構えて「道徳とは何ぞや」ということを考えるわけではありません。
「ルール本」は書店に行けばたくさん手に入ります。
でも、「○○すべきである・すべきでない」という「知識」は増えても、「なぞやってはいけないのか?」ということまではなかなか教えてくれません。
大事なのはむしろ「なぜ」の方なのではないでしょうか。

ではなぜドアを乱暴に閉めてはいけないのか。受話器を乱暴に置いてはいけないのか。
それは周りの人に「嫌な思い」をさせないようにするという「気遣い」です。
耳元で「がちゃん!」という音がしたら非常に不快です。
そんな風に受話器を置くということは、たとえさっきまでとても丁寧に対応したとしても「あれは全部その場限りの嘘だったのではないか?」と思われても仕方がありません。
ただ、往々にしてそういうことをする人は「悪気」は無かったりします。
「そこまで気が回らなかった」というのが正直なところでしょう。
でも「悪気が無い」なら尚のこと、たかが受話器がをがちゃんと置いたくらいで悪い印象を与えてしまうのはとても損なことです。割に合いません。
ドアを乱暴に閉めたとしても、受話器を乱暴に置いたとしても、その人は心根の優しい人で、その場にいる人、電話線の向こうにいる人をきちんと気遣っているのかもしれないのです。だから「マナー」は怖い。
ただ知らなかったというだけでは済まされない痛い思いをすることがあるから。
だからこそ、知らないよりは知っていた方がいいし、世間で「慣習」として通っている「儀礼」はやらないよりやっておいた方がよいのです。

私が「マナー」で痛い思いをしているのは、色々な国を転々としてきたからだと思います。
それも、ずっと「英語=アングロ・サクソン」の文化にいたのではなく、韓国の儒教文化、大陸ヨーロッパの文化、ラテン・アメリカの文化と色々な「外国文化」を経験しています。
7歳のときに東京からスイスのジュネーヴに引っ越し、小学校の大半をスイスで過ごし、日本に戻ってきました。
思い起こせば「マナー」でずいぶん苦労したものです。
特に、「生理的現象」に関するエチケットのように「感覚的なマナー」であればあるほど、地域・国によって「正しいマナー」が異なります。
たとえば、いきなりびろうな話しで申し訳ないのですが、「鼻水」。これはくせ者です。

ヨーロッパでは、鼻をズルズルすする事は、言ってみれば「おなら」よりも悪いくらいに、嫌われている行為です。
だからみんな鼻を「ちーん!」と思いっきりかみます。
ヨーロッパに旅行される際は、キチンと鼻をかむようにしたほうがいいでしょう。
ところが日本人は、鼻をすすることは、確かにお行儀がよいとは言えないけれど、大きな音を立てて鼻をかむのもまた心情的にはばかられる、と思っているフシがあります。
これはもう「感覚的」な問題です。そう感じるか、感じないか。
でも「感じてしまう」のだからしょうがありません。そういう文化なのです。

小学校6年生のとき、スイスから日本に帰国してほどなく、花粉の季節になりました。
鼻水が出るので、私は思いっきり鼻をかみました。
すると周囲から白い目で見られ、「あいつは鼻のかみかたが変だ」とからかわれ、嫌な思いをしました。
全校生徒に指を指されて笑われるような事態になってしまいました。
スイスでは普通のことだったのですが、その「感覚」が日本の小学校には合わなかったのです。
それから、人に見られていないところで鼻をかむようになり、時にはトイレでちーん!とかみました。
鼻をおおっぴらにかめなくても、スイスで育った私は鼻をちょっとでもすするのが生理的に嫌だったのです。
それ以来、「鼻のかみかた」「鼻のすすり方」を他人がどのように処理しているかに関して、エラく敏感になってしまいました。

長年の(個人的な)研究と観察の結果、鼻をすする日本人はとても多い、という見解を持つに到りました。
ある時、仕事で一緒の車に乗り合わせた方が鼻をすすっているので、ティッシュを持ち合わせていないのかと思い「ティッシュ、ありますけど使いますか?」と伺うと「持っているから大丈夫です」と仰るのです。
持っているならじゃあ、鼻をかむのかな?と思いきや、その後もずーっと「ず~、すすん。ず~、すすっ」とすすりつづけ、なかなか鼻をかまない。
その時はっきりとわかったのです。
日本には「うるさく鼻をかむ」よりも「鼻をすすっている」方がまだ「マシ」という「マナー感覚」を持っている人が結構多くいる、ということなのです。

そのような「マナー感覚」を直したり、指摘することはとても難しいものです。
ただ、声の仕事を専門としている立場から言うと、鼻水が出ているときにすすると、喉に流れてしまい」、喉が荒れます。結果的に、声が悪くなります。
医学的に言っても、鼻水というのは雑菌を外に出そうとする行為なのだから、せっかく出てきたものをふたたび体のなかに取り込むのはやはりよろしくないのではないでしょうか。
再度、菌を体に取り込んでしまうことになります。
だから、鼻水が出たら、すするよりもきちんとかんで、体外に出してしまったほうがいいのです。

また、鼻をかみすぎると鼻の下が赤くなってしまいます。
だから私はなるべく柔らかいティッシュを選んで持ち歩くようにしています。
思えば、そういうことも広く見て「ファッション」の一貫なのではないでしょうか。
逆に言えば、「ファッション」とは「マナー」の一部である、という見方も可能です。
これから、この「ファッション・ジャーナル」で「礼儀・エチケット」と「ファッション」の関係について考えて行きたいと思います。


posted: blooming date: April 20, 2009 11:17 AM