報道番組の「フィールドキャスター」という仕事をしていると、台風や大雪などの大変なことがあると会う人会う人に「大変だね」と言われます。
一方で、普通はできない経験の連続ということで言うと「貴重な体験をさせてもらってるね」ともよく言われます。
テレビ報道の現場に来てから三度目の冬を迎え、振り返ってみると、本当にこれぞ「貴重な」という体験はやはりダライ・ラマ法王にインタビューをできたことでしょう。
インタビューが放送されてから、それこそ会う人会う人に「ダライ・ラマ法王はどうだった?」と言われました。
政治的に繊細かつ難しい問題の象徴である人物ですが、ここではあえて「ダライ・ラマ法王その人」に焦点をあてて見たいと思います。
昨年11月、アメリカ大統領選挙の直前にスケジュールされたインタビューの前、何人かの人に「癒されてきなよ」と言われました。
私も行く前は「何かものすごいオーラが出ていて、自分の体にも変化があるのではないか?それこそ癒されるんじゃないか?!」なんて思っていなかったと言えば嘘になります。
実際どうだったのか?
振り返ってみると、じわりじわりと衝撃の大きさが実感されてゆくという、「後から来る」形のとっても不思議な影響を受けました。
一言でいうなら、「悟り」ってあるんだな…ということ。
でもその悟りを開いた人と同じ部屋の空気を吸ったからといって、別に自分も悟ることができるわけではない、だからこそ特にその場で自分に変化が起きるわけではない。
「悟り」というのは自分で自分を鍛えなければたどり着ける境地でも、誰かに連れて行ってもらえる所でもないわけですから、当然と言えば当然ですが、要するに「悟り」はそんな簡単なものでは無いということなのでしょう。
じゃあ何故「悟りの境地はある」と感じたのか。
とにかく、法王は普通の人間とは違うことは確かでした。
それは目が合った瞬間からそうだったというよりは、ダライ・ラマ法王を「生」で見て、彼の表情や声を聞いていると、ほぼ間違い無く誰しもが感じることではないでしょうか。歴史の生き証人であり、「活仏」とされる人物、世界で一番有名な人の一人、と言えばそれもそのはずかもしれませんが、でもそれだけではない「何か」がある。
何かが「ある」というのは適切ではないかもしれません。
むしろ「無い」というほうが当たっています。というのも、何だか法王は、人間の存在そのものというか、魂がそのまんま体に宿っている感じがしたのです。
それは誰だって同じと言えばそれまでかもしれません。
でも多くの人は、自分も含めて、自分の魂の奥底というか、自分の本質って外には見せないですよね。
他者と自分の間には見えない「壁」があって、それでお互いを牽制し合ったり、相手を探ったり、自分を守ったりして、他者と自分の間の「距離」を調整する。
それこそ「無意識」なんていう言葉があるくらいですから、自分でも知らずに「壁」を打ち立てて、その「奥」や「裏側」にあるものなんて自分自身でも知らないことだって結構あるはずです。
法王には、なんだかそういうものが一切無い、他者とご自身を隔てる「壁」が無かったのです。
「ペルソナ」という言い方があります。
無意識の中にある自分の本質、さまざまな欲望と衝動に突き動かされている「エゴ(自我)」を覆い、社会的に外と相対して行くための「外向け」の「仮面」のことです。
要するに「ペルソナ」とは他の人から見える「自分」のことです。
この「ペルソナ」と「エゴ」あるいは「自我」はなかなか一致しないものです。
誰かに対して激しい嫉妬を覚えたりしていても、そのことは必死に隠し、あるいは無意識の底に押しやり、表面上はその人とさも仲よさそうに接する、というのが「エゴ」と「ペルソナ」の関係です。まぁ、至極「ふつう」のことです。
ただ、この「外向きの自分」と「本当の自分」の不一致が激し過ぎると、心の病を生じてしまうことがあります。
激しいストレスを感じていても、それを職場では出せずに、溜めすぎた結果一気に爆発してしまい、通常の社会生活が送れないほどに落ち込んでしまう、これが最近増えていると言われている「うつ」です。
政治学者の姜尚中さんはそういった症状は人間として当然のことだ、むしろ「悩むこと」あるいは「うつ的なもの」と向きあうことによってこそ、人間は前に進むことができる、と主張し、その考えをまとめた著書『悩む力』が各方面で話題になっています。
私はその通りだと思います。
要するに、自分にさえわからない自分、あるいは「陰の自分」がいるのは人間として自然なことなのです。
ここでダライ・ラマ法王に話しを戻しましょう。
つまり法王にはそういう「陰のキャラクター」のようなものが無い、少なくとも私はそういう風に感じました。
もちろん私のような凡人には計り知れない悩みと苦しみを経てきていらっしゃることと思いますが、仏教というのは「悩みと苦しみ」、あるいは「煩悩」を精神的に超越したところに行く事を一番のテーゼとする哲学だと言われています。
「活仏」、つまり現世に顕れているブッダの魂という存在として、ダライ・ラマ法王は「超越」に関しては誰よりもエキスパート、というと失礼かもしれませんが、とにかく現世的な煩悩から誰よりも「超越」されていると言っても過言ではないでしょう。
そういう存在を前にするとどういうことがおきるのかというと…癒される、というよりは、むしろ「冷や汗」をかきました。
何故って、やたらと「自分」に対する意識が研ぎ澄まされてしまったからです。
テレビ局を代表して外国メディアに混じってお話をうかがうという、単純に「大きな仕事」という緊張で冷や汗をかいたのかというとそうではなく、むしろそういう「現世的な緊張」はなんだか別の「緊張」ですっかり吹き飛んでしまいました。
<魂>がそのままの状態で自分の目の前にあって、その魂は嘘偽りない「自分自身」のありのままの姿で、何の計算も嫉妬もエゴもなく、まっすぐにこちらを見ている…ということをちょっと想像してみてください。といってもなかなかしにくいとは思いますが(笑)。
そういう意味では得がたい、貴重な経験をしたことに間違いはありません。
ダライ・ラマ法王はよく「誰に対しても分け隔てない接し方」をされると言われている方です。
それはその通りですが、平等に「接している」というよりは、「自己」と「世界」との間に「壁」が無いから、世の中のすべてのものに対してもっと根本的なところで「平等」になれるのだと思います。
「エゴ」というと、egocentric(エゴセントリック)という英語の言葉が「自己中心的」を意味するように、あまりよいものではないイメージがあります。
日本語だと、たとえば「我が強い」など。
「エゴ」の中でうごめく煩悩も基本的には乗り越えられるべきもの、悪いものとみなされています。
そういったものがまったくもって感じられない「人間」の前に行くと、それはすでに「人間」といものを超えた存在、つまり「悟りを開いた存在」なのだな、と思いました。
その存在との明らかな対比として、私は自分自身が煩悩に囚われた「人間」であることを強く感じました。というより、「人間くささ」というべきでしょうか。
あのとき「エゴの不在」に触れて強烈に感じられた「自分のエゴ」という現象をあとから振り返ってみると、逆説的ですが、むしろ「人間」は「人間くさい」、つまり「エゴ」があってこそ「人間」なのだと感じるようになりました。
別にダライ・ラマ法王に人生相談に乗っていただいたわけではありませんが、何となく彼は私の性格の欠点や、考えているネガティブなことを全て見抜いているように思ったというか、「あなたは不完全かもしれませんが、それでも私はあなたを一人の人間として尊重し、受け入れ、話しをしましょう」という姿勢をインタビュー中に感じたのです。
「普通の人々」を彼は、「それでいいのだ、人間なのだから」という風に許し、寛大に見ているように思います。
もちろん、理想的に言えば煩悩に苛まれない境地を目指して精神を鍛えてゆくことは大事です。
でもそのためにこそ、まずは自分が「人間らしい人間」であること、嫉妬や猜疑心に振り回され、飽く無き欲望に突き動かされている人間であることを受け入れてあげることが、成長への第一歩なのではないでしょうか。
「汚いところ」「弱いところ」もあって当然、だって「人間」ですから。
大事なのは、自分のそういった面を認め、どう付き合って行き、そこからどう変わってゆくかです。

