「アメリカ・大統領選挙に見る女性の<適切なファッション>」

最近、女性政治家がテレビなどに露出する機会が富みに増えています。
露出が増えると、やはり「ファッション」に注目が集まります。
日本でも、小池百合子議員が自民党の総裁選に出馬し、メークやファッションが取りざたされました。
アメリカの大統領選挙は残すところあと一週間となり、最後の激闘が繰り広げられています。
ここにきて、共和党副大統領候補のサラ・ペイリン氏のファッションが、一か月に1500万円も投入したということが明らかになり、庶民の感覚とかけ離れている「浪費」だとして批判を浴びています。

共和党の選挙陣営は、そもそも「ファッション」や「ヘアスタイル」を批判の対象に取り上げる事自体が「性差別」だとして反論しています。
でも「1500万円」という際だった数字を聞いてしまうと、どうも共和党の反論はピントがぼやけているように感じてしまいます。

たしかに多額のお金を投じることに批判が集まってしまうことは、ロジックが通っていますが、一方で、世界中の人の目にふれる大統領選挙において、公の場所に出るときに「恥ずかしい格好はさせたくない、女性だったらキレイにみえるようにしてあげたい」、という選挙陣営の「親心」も、理解できなくはありません。

いずれにせよ、「女性」が社会に進出するにあたっては、いろいろと気にしないことが多いということが今回の件でよくわかります。
とくに、「他人の目にファッションがどう写るか」どういう「印象を与えるか」というのは、最重要課題と言えるでしょう。

だからこそ、様々な職種、様々な年齢の女性が、人生・社会におけるそれぞれのシーンで、その場所のTPO(Time, Place, and Occasion 時間、場所、状況)に「適した」ファッションを見つけ出すために、世の中にこれだけヴァラエティに富む女性誌が存在しているのではないでしょうか。

それにしても「適切なファッション」というのは永遠のテーマです。
ファッションとは、ただ洋服、アクセサリーだけを指すのではなく、それこそメーク、ヘアスタイルはもちろんのこと、姿勢、動き方、声の調子、視線、そういったもの全てを「トータル」に指します。
言ってみれば、「ファッション」は、そのひとの「生き方」あるいは「価値観」を端的に表現してしまうものなのです。

たとえば、ペイリン氏がある集会で着たのはヴァレンチノのジャケット。
クリーム色のシルク製で、スタッフがアメリカの高級デパート、サックス・フィフス・アヴェニューで調達してきたそうです。
「クリーム色のシルクのジャケット」と言えば、40代キャリア女性にとっては、オフィシャルかつ華やかな場所に出る際の衣裳として、これ以上は無いと言っていいほど「適切な」衣裳という感じがします。
問題のお値段ですが、2500ドル。日本で買うと、50万円近くはするようです。

アクセサリー、ヘアメイク代などを含めると、相当な金額にはなりそうなことは想像できますが、1500万円というとやはりショッキングな感じがします。
選挙陣営は「可能な限りの資金をペイリン氏のファッションに投じた」のではないでしょうか。
その結果、蓋を開けてみると1500万円もかかってしまった、と。
 
この場合、ペイリン氏はどうすればよかったのでしょう。
たとえば、もっと安い、手頃なスーツを着たら結果は違ったのでしょうか?
アメリカのある女性政治評論家は、
「ペイリン氏は安物のスーツを着たとしても、結局は野暮ったいとか、田舎臭いという批判を受けたはずです。どっちにしろ、批判したいだけなのです」
とペイリン氏を擁護していました。

一方で、ペイリン氏に批判的なモーリーン・ダウドというニューヨーク・タイムズ紙の著名なコラムニストは、
「ペイリン氏にはスタッフが持ってくる豪華な衣裳を受け付けないという選択肢もあったはずだ。問題は彼女がそうしなかったことだ」
と論じていました。確かにそうです。
では果たして彼女に選択肢はあったのかどうか?それが問題なのです。
アメリカの大統領選挙は、言うまでもく世界の命運がかかる、とても大きな出来事。
世界の最重要関心事と言っていいでしょう。
その副大統領候補は、とてつもない重要なポジション。
特に、劣勢が伝えられたマケイン陣営が巻き返しを賭けた人選となると、ペイリン氏には、想像を絶するプレッシャーがかかっています。
多くの人が意思決定に関わり、より多くの人の利害関係が複雑に絡み合う中、あれよあれよという間にアメリカ中央政治の荒波に巻き込まれた彼女は、洋服に対して自分の意見を言ったり、そのファッションに身を包むことによってどのような事態を引き起こす可能性があるのか、といったことにまで考えが回らなかったことは大いに考えられます。

もしかしたら、これまで見たことも無いようなステキなセットアップ、スタイリングを見て、女性として、単純に「わぁ、すてき!」と舞い上がってしまったのかもしれません。
個人的な印象としては、ペイリン氏という人は、そういう素直なところを多く持っている人なのではないか?感じます。
彼女のそういう正直なところが、人々の心を掴む秘密のひとつと言えるかもしれません。

ただ、そういった、「普通ならばOK」なことが、「アメリカ大統領選」の主役の一人、という立場になると一気に事情が変わります。
ペイリン氏で言えば、どんなプロフェッショナルが集まって彼女をスタイリングしても、最終的には「政治家ペイリン」としての彼女の「判断力・バランス感覚」が物を言のではないでしょうか。

結局、一部の人に不快感を与えるような服装をしてしまったことで、彼女はマケイン陣営が喉から手が出るほど欲しい、いくばくかの貴重な「票」を失ってしまった可能性があります。
たしかに「自分で選んだのではない、着せられたからしょうがない」と誰かのせいにすることは、理屈としては通ります。
でも現実に損をするのは自分。
このような損を覚悟の上で、あえて、
「私はこの格好が好き。JCペニーの150ドルのジャケットより、ヴァレンチノの2500ドルのジャケットがどうしても自分に合っている」
と主張するのだったら、まだよかったように思います。
なぜなら、そこには、サラ・ペイリンという人の「ポリシー」、「自分」があるからです。
今回のサラ・ペイリン候補の「ファッション」に関する批判は、突き詰めると「自分を持っているか」あるいは「すべてを選挙陣営に握られている操り人形か」ということに対する疑問が浮上していることが背景にあるのではないでしょうか。

ここから私が思うのは、今回の大統領選挙は、最終的には誰が本当の「自分」を持っているか、が勝負を決するのではないか、ということです。

かつてないほど多額の政治資金が投入されたと言われる、対立候補の中傷・揚げ足取りに終始する「ネガティブ・キャンペーン」には批判が集まっていますし、私も同感です。
ただ、とことん候補者のすべてをさらけ出すことを強いられる「ネガティブ・キャンペーン」の過酷な戦いの中、どれほどたくさんの人がよってたかった「ねじって」伝えようとしても、自らの「真の声」をきちんと有権者に届けることができる「精神力」と「伝える力」を持っている「真のリーダー」のみが生き残る、そういう結果を生んだのではないでしょうか。
とりつくろおうとすればするほど、より「嘘っぽく」見えてきてしまう、という皮肉。
これは、行き着くところまで行き着いたテレビによる政治の「劇場化」が引き起こした、予想外の産物かもしれません。

結論。「適切なファッション」とは?それは「貴女自身」が「適切だ」と心から感じるかどうか、にかかっていると言えるでしょう。
 


posted: blooming date: October 30, 2008 3:21 PM