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  寛容さと忍耐のあいだ~Patience~

スペイン語で「平和」のことを「paz」と言います。発音は「パス」。
南米の国、ボリビアの首都はLa Pazと言うアンデス山脈の奥深く、標高の高いところに位置する「平和」という名の街。
ラテン系の姓としても「Paz」は比較的一般的なものです。
世界的に有名な作家、オクタビオ・パスもそう。「パスさん」は日本語に直すと「平和さん」ということになります。

語源的なつながりがあるかどうかは厳密にはわかりませんが、この名詞と似通った発音をする単語があります、それは;paciencia パシエンシア。
英語でいうpatienceで、「忍耐」や「寛容」を意味する言葉です。
Patient はどういう時に使うかと言うと、たとえばアイスクリーム屋に長蛇の列が出来て、待ちくたびれた子供がぐずりだしたときに、母親がこんな風に用います;
“Be patient!”
日本語ですと、
「辛抱なさい!」
に近いでしょうか。あるいは「我慢なさい」。
だけど、スペイン語のpaciencia、英語のpatient ペイシェントに私は、日本語の「辛抱」や「我慢」とは違う、「やさしさ」や、あるいは「ものがなしさ」のようなものさえ感じます。
それは、ボリビアのラ・パスであるインディオの親子の姿を見かけたときからのように思います。

そのラ・パスという街は、首都であるにも関わらず長らく発展から取り残されてきました。
他の南米の多くの国と同様に、この国でも上流階級は肌の白いスペインなどの血をひくいわば「植民者」たち。
征服された肌の黒い「インディオ」たちは依然として社会的・経済的にも虐げられた状況が続いています。
富は、ほぼボリビアの低地に集まります。
最近でこそ、ラ・パスも大分発展してきてはいるようですが、やはり標高3000メートルを超す街の経済発展には制約がつきまとうのかもしれません。

十年近く前、南米各地を旅しているとき、ボリビアのラ・パスを訪ねました。
崖のように急なアンデスの斜面に張りつくように、石造りの建物が広がる街です。
細い石畳の路地を、街の中心部から離れるように上へ上へとのぼってゆくと、迷路のように入り組んだ低所得者層の住宅街に足を踏み入れていました。
インディオの女性が、行商のための商品がどっさりと入った重そうな麻袋を背負い、右手で3歳くらいの女の子の手を引き、左手には食料品の入ったビニール袋を持ち、ゆっくりと坂道を上って行くのです。

日本では体験することのないような急な坂道。
小さな軽自動車でさえ入ってこられない細さ。
お金のある人は決して住むことのないこのような環境にしか住むことができない人がたくさんいます。
より高く、不便で、肉体的に過酷な場所へと押し上げられてきた結果できた貧民街。
 
女の子も、幼いとはいえ、母親の手伝いをしているのか、自分の体重ほどもありそうな鞄を背負っています。
アンデス・インディオの女性特有の、長い三つ編みに結った髪の毛が地面にこすれるほど前方に身をかがませ、坂道をゆっくりと上ってゆく二人の間に、ほとんど会話はありません。

二人にとって、この旅路はどれほど肉体的に過酷なものかはかり知れません。
たしかなことは、この二人が毎朝毎夕、同じ道を下っては上り、下っては上りを繰り返していること。
標高三千メートル、場所によっては四千メートル、私のような部外者が慣れない体で同じことをすればたちまち高山病で倒れてしまうでしょう。
その証拠に、遠くからではとてもゆっくりに見えた親子の足取りは、想像以上に安定したスピードで歩を進めていて、私はほんの数ブロックを一緒に歩いたあとはすっかり肩があがってしまい、その内二人の姿は坂の上の蜃気楼のように消行きました。

「Patience」 はもともと「傷や痛みを受けた苦しみに静かに耐える」という意味のコトバで、そこから「忍耐」や「寛容」を一般的に意味するようになったようです。
私は、このpatienceというコトバを耳にすると、長くて急な坂道を思い荷物を背負いながら文句ひとつ言わずに上り続けるボリビアのラ・パスで見かけた親子のことを思い出します。
それは、苦しみを運命として受け入れて抗わない姿勢、苦しみを優しく受け入れるような心の状態です。

この、patience について論じた本を読みました。
以前も言及したことのあるM.J.ライアンという作家の『The Power of Patience』という本です。
ライアンさんは、この本のなかで、Patience<寛容さ>というものは、元々生まれ持った才能などではなく、アスリートの筋肉のように日々「訓練」し、かつ「鍛える」ことによってこそ初めて身に付くものだと言っています。

たとえば、この文章を読んでいるあなたは、高層ビルのエレベーターを待っているときに、なかなか降りてこないからと何度もボタンを押したことがありますか?
あるいは、エレベーターに乗ったときにコンマ一秒でもいいから早くドアを閉めて目的のフロアに行くために何度も「閉」ボタンを押したことはありませんか?
私はそういう人間でした。
でも、よく考えてみるまでもなく、「閉」ボタンを何回押したとしても、またどれほど強く叩いたとしても、結果はほとんどかわらないでしょう。
この「閉ボタン連打」という動作は、私のなかの「イライラ」つまり「寛容力」・「忍耐力」の欠如の表れ以外の何者でもありません。

一分一秒でも早く目的地に着きたい、一分一秒でも携帯電話がつながらないのは許されない、私たちはそんな「スピード狂」の社会に生きています。
でも、長い行列は、どれだけイライラしても一センチたりと短くなることはありません。むしろ、イライラした分だけ遠回りをしてしまった経験をお持ちの方は多いのではないでしょうか。
焦ってタクシーに飛び乗ったら渋滞につかまった…よくある話しです。

今まで私は、自分は生まれつきせっかちなんだ、つまり「寛容」や「忍耐」という性質には不幸にも恵まれなかったんだと、勝手に思いこんでいました。
でも、私は「patience 」を鍛える努力をあまりしてこなかっただけなのです。
たとえば、大きな事件の生中継があるとき。情報が錯綜して、カメラマンやディレクター、東京の本社のスタッフ、みんながあせると、その「焦り」が伝染して、あたりに充満して、どんどん余裕がなくなって、その結果ミスが生まれて、さらに焦る、という悪循環が生まれてしまうことがあります。
誰よりも「情報」をより「早く」伝えなくてはいけない、そんな現場だからこそ、陥ってしまいがちな「焦りとイライラの伝播」。そんなときは、深呼吸をして、自分を落ち着かせるようにしてきました。
焦ったときのために、ある魔法の呪文があります;
You have all the time you need.
日本語に直すと、こんな感じです;
「大丈夫、時間はたっぷりあるんだから。あなたにはありったけの時間があるんだから、落ち着いて」。

時間がないときほど、頭に血がのぼってカッカして焦りはじめるときほど、このコトバを自分に言い聞かせるようにしています。
するとフシギなことに、「なんか焦る意味ってないな…」と、ふっ、と落ち着けるんです。

日本語の「忍耐」だと、場合によっては何となく「理不尽だけど我慢する」っていう感じがする時があります。
「寛容」だと今度は逆に緊張感がなさすぎるような気がします。
Patience といのは、「忍耐」と「寛容」の間にあるようなものかもしれません。
毎日ちょっとずつ「苦しみ」に耐えることによって、段々と耐性が増してくるもの。
着実に自分の力になってゆく何か。
それが、あの坂道の親子を支えているものだったのではないでしょうか。
大丈夫、時間はたっぷりある…どうにも時間が無くって困ったときにそうつぶやいたみてはいかがでしょう、きっと時間泥棒さんもあきらめて退散するハズ。

posted: blooming date: August 11, 2008 11:45 AM|