<喜捨> 幸せをひとり占めにしない「喜んで捨てる」ルール

あなたは信心深い方ですか?
信心深いっていうとちょっと日本人にはあまりなじみがないかもしれません。
そんなに大仰な「信心」でなくてもいいんです。
たとえば、新しい靴は夜には出さないとか、霊柩車が前を通り過ぎる時には、親指を隠すとか、お葬式から戻ってきたときは家族に塩をかけてもらうとか、そういうことを大事にする方ですか?ということ。

私は結構気にする方です。
靴だけでなく、新しい服は夕方以降は着ないようにしています。
お通夜に、亡くなった方に新しい浴衣を着せるという日本古来のならわしからくる習慣です。
だから、生きている人は夜に新しい着物を着ない、ということなんですね。
小さいときから、親に新しいお洋服を買ってもらって、それを来て遊びに出かけようとすると、「夜に新しい服を着てはいけません!」と注意されてきました。
母親が日本の伝統を大事にするタイプで、影響を受けているようです。

さて、年が明けてからこの方、私の身にイヤなことがたてつづけに降りかかってきました。
「イヤなこと」というのは、予期せず自分の身にふりかかってしまう「イヤなこと」、言ってみれば「交通事故」のような種類のコトです。
極めつけとして、実際に、交通事故に遭ってしまいました(そんなに大した事故ではないのでご心配なく…)。
元々、「運」は良いほうだと思っているので、一体どうしたことだろう、と自分でもフシギでしょうがなかったんです。
何か知らない内によくないことをしているんじゃないか?そんな気がしてきました。

でも、そういった「事故」以外のことは基本的には順調で、仕事もプライベートも楽しく過ごし、何不自由ないというか、まさしく「すこやか」に過ごさせていただいているんです。
ひとつ、気になることと言えば、年末年始バタバタしていて、初詣でにいきそびれていること。
海外に住んでいる時をのぞくと、今までの人生で初詣でに行かなかった、つまり氏神様にご挨拶にいかなかった年などなかったんです。
それが今年は行っていない。
それと、父方と母方両家のお墓参りにずいぶん行っていない。
母方のお墓は湘南にあるので、そんなに遠くないのですが、父方のお墓は京都にあって遠いので一昨年に法事があってから行ってないように思います。
そんな話を、仕事でお世話になっているある人物に相談したところ、こう言われました;
「幸せをひとり占めしないことです」
はて?最初はどういう意味だかよくわからなかったんですが、話を聞いている内になるほど!と思ったのです。
その人が言うには、「誰もがうらやむような幸せの絶頂にあって、何不自由の無い人に、突如として大きな不幸が襲いかかることが往々にしてある」のだそうです。
言われてみると、そうかもしれません(まぁ私の幸せといってもささやかなもので、そんな「絶頂」と言うほど大したことではないのですけれども…)。

「世の中はプラスとマイナスで成り立っている。幸せがあれば不幸もある」。

苦労をしたからこそ、幸せのありがたみが分かるものだったりします。
私は小さいときからお調子者で、小さい頃から「落ち着きがないから、調子に乗って変な落ち度の無いようにしなさい」と、これまた親から言われてきたのですが、それと同じで、幸せでルンルン気分だと、逆に周囲に感謝することを怠ったり、ついうっかりして誰かに失礼をはたらいてしまったりすることがあります。
「調子に乗る」というコトバだけみると、波に乗っている、リズムに乗る、といった感じで、いい意味のようにも思えますが、「調子に乗る」とかえって「調子っぱずれ」の歌をうたってしまうもの。
それは、プラスばっかり作ってしまって、マイナスに目を配ることが出来無くなるからなのかもしれません。
「調子がイイ」時は、その「おすそわけ」をして、陰と陽のバランスを整えないといけないのだそうです。

じゃあどうすればいいんでしょう?

「ボランティアや寄付、何でもいいから、見返りを期待しない<善行>を世の中に対してすることです」
と言われました。
そこで、人権活動を行っている団体のサイトに行って、何ができるのか調べてみました。
いろいろ選択肢があり、中には毎月一定額の寄付を自動引き落としにするプランがありました。
これですと、毎月3千円で世界中の200人近くのこどもたちに、最低限の文具を届けることができるそうです。
3千円なら、たとえば中距離のタクシー代を一回ひかえただけで捻出できます。
これとは別に、支援する対象を選べる寄付がありました。
チャイルド・ポルノ撲滅運動や、スーダン紛争人道支援など。
ネットで申し込むと、コンビニで振り込めるという便利なシステムです。
やろうと思えば、いつだって簡単に人道支援活動に寄付ができるのです。
それも自分で考えて、使い道を指定することができます。
遠い国で貧困や紛争で苦しんでいる人々の生活が、いくらの金額でどれだけ改善できるのか、具体的な数字で表されるのを見て、何故いままでしてこなかったんだろう、これは寄付をしない手はない、と実感しました。

私は、報道に携わっています。
何らかの不当なあつかいを受けて困っている人を取材して、その後に政府が動いたりするなどの変化があり、改善の兆しが見えることがあります。
そういう時、取材をさせて頂いた方に心から感謝されることもあります。
それは、良いか悪いかで言ったら、もちろん良い行いだと言っていただけるでしょう。
でも、その取材はマスメディアという巨大なシステムの中の、一歯車としての私が、求められた役割を果たしたに過ぎないとも言えます。
また、あえてうがった見方をするならば、視聴率が広告費に結びつく商業放送の枠組みの中での「プラス」は、「無償の善行為」とは本質的に違うとも言えます。

報道する側にも色々な立場があります。
日々、特定の分野で情報収集を進める記者がいて、そこからある情報をピックアップしてフィーチャーして放送する番組の担当者がいて、そこで初めて私に指令が下りてきて現場へ取材におもむきます。
私の取材は、ひとつの「最終表現」という形でオンエアされますが、そこに到るには多くの人の努力と力が積み重なっています。
その上で、最終的にニュースの現場に行って「生」を感じ、映像として流れ、反響があり、取材に応じて下さった方の「生の声」も返ってくる、という私の立場は、とてもやりがいがあって恵まれた立場です。
また、直接仕事でお世話になる関係者だけでなく、番組などで私を見て下さっている多くの方々の力によって、私は生かされています。
だからこそ、直接利害関係のない、まだ会ったこともない人々に向けて、ほんのわずかであっても「プラス」のことをするのは、至極当然のこと。
私の「責任」というか、いわば「義務」のようなものだと、人権活動団体のサイトに行ってみて感じました。
 
「幸せをひとり占めしてはいけない」。

そう知人に言われたコトバを、私に当てはめて解釈すると、こうなりました。
あなたはどう解釈されますか?
…そんな偉そうなことを言っておきながら、日々の私は決して人様に自慢できない失敗を繰り返し、周囲に迷惑をかけっぱなし。
でも、だからこそ、ボランティアといった行為は、自分を見つめ直すよい機会をくれるのではないでしょうか。
日本という恵まれた国で生活する<私>という人間を、世界という大きな地図の中においてみて、客観的に、相対的に見ることができるチャンスになります。
私に「幸せプラス・マイナスの法則」を授けてくれた知人は、一緒に飲みに行っても仕事の愚痴を言ったことがありません。
ある時私が、
「仕事の愚痴を言いませんね」と言うと、その人は、
「せっかく美味しいお酒とお料理をいただいているのに、わざわざ仕事の愚痴を言って台無しにすることほどもったいないことはありません」と言いました。

東京で夜、外食して、少し飲んだりすれば、3千円から1万円くらいはかかってしまいます。
終電を逃してタクシーで帰ると、郊外ならば1万円はかかります。
もちろん、接待など、どうしてもはずせない「飲み」もありますが、そんなに必要でない「飲み」なら、一度ガマンしただけで、一体どれくらいの数の子どもたちに、将来のよりよい生活への夢を抱かせる一助となる新しい教材や、命をつなぐために無くてはならないワクチンを届けることができるのでしょう。
5千円の飲み代に、7千円のタクシー代なら、1000人近くの子どもたちに文具が行き渡るか、もしくは「はしか」から命を守るワクチン600回分以上がまかなえる計算になります。
ここで挙げた数字は、すべてユニセフのウェブサイトに出ています。
試しに、いくらの募金で具体的にどんなことができるかを、サイトでご覧になってみてはいかがでしょう。

「善行」、というと、ひるんでしまいそうですが、自分が日々の生活にかけているお金と、世界の恵まれない状況にある子ども達に具体的に何かをしてあげられる金額を比較してみると、自分の<意識>の中にちょっとした変化が生じてくるかもしれません。
ちなみに、とっても出遅れた初詣でをかねて、とある都内の神社に「おはらい」に行ってきました。
そのとき、お賽銭箱に「浄財」とありました。
これは、言い得て妙です。
お金というのは人間の欲望にまみれているものですが、時にはお金を「欲」から解き放ってあげることが必要なのかもしれません。

イスラム教では、貧しい人を助けるために寄付をするザカートないしサダカ、日本語訳は「喜捨」という行いが教義に含まれています。
厳密に言うと、貧民救済税のように「義務化」されたものと、自らの意志で行うものなど、細かく分かれているようですが、私はこの「喜捨」という日本語訳に興味を引かれます。
苦労して築き上げた財産を「捨てる」人などいませせん。
自ら稼いだ血と汗と涙の結晶であればこそ、死んでも手放したくないのが人の常、それが「お金」です。
それを何の見返りもなく、不特定多数の人に明け渡すという行為は、資本主義のロジックで言えば「捨てる」に等しいと言えるでしょう。
でも、そこをあえて、「喜んで捨てる」…資本主義社会に生きる個人は、費用対効果、利ざや、利害関係といったものにがんじがらめにされています。
「喜んで捨てる」ことは、そこから自分を解放してあげる一つの契機になるのではないでしょうか。


posted: blooming date: April 14, 2008 11:40 AM