「○○社の社員が三人集まれば人事の話になる」という言い方を最近、幾度か耳にする機会がありました。
それぞれ違う会社の方から聞いたことです。
要するに、「自分の会社の人間は、三人寄れば人事の話になるって言われるくらい人事の話が好きなんだ」ということをおっしゃりたいようでした。
「三人寄れば文殊の知恵」ということわざがありますが、まるでことわざのように広く世間に知れ渡っていることであるかのように「○○社の社員は人事の話が好き」と言う「会社員」の方は結構いらっしゃいます。
というより、「会社員」のみならず、省庁・大学・病院・法人など、ある程度の期間、安定して人が所属する組織の構成員で、「人事」に興味を持たない人は少数派なのではないでしょうか。なぜでしょう。
当然と言えば当然のことかもしれませんが、今回は「人事」と「政治」についてちょっと考えてみたいと思います。
広辞苑によると「愚かなものでも三人集まって相談すれば文殊菩薩のような良い智恵が出るものだ」というのが「三人寄れば文殊の智恵」の意味とあります。
文殊菩薩は仏の「智慧」の象徴。
「三人寄れば社会ができる」という言い方もありますが、それは三人いれば多数決を取ることができるからではないでしょうか。
三人いれば、「多勢に無勢」が生まれ、「政治的駆け引き」の余地が生まれます。
ある組織の所属人数が多くなればなるほど、ひとつの決定を下すにあたって「利害対立」が生まれやすくなります。
同じ決定をしても、損をする人と得をする人が出てくる。
だから、ある決定が下されるぞ、という噂が流れると、皆が浮き足立ち、お昼休みにはそれぞれの派閥がつれだって、ひそひそ声で情報交換をし、敵対陣営の動きへの対抗策を練る。
この作戦会議は、高級ホテルのレストラン、ファストフード店、喫茶店、廊下、給湯室で、昼休みだったり深夜だったりと、場所と時間を問わずゲリラ的に展開されます、たぶん。 「たぶん」というのは、私は「フリー」の立場で仕事をしていて、どこの組織にも所属していないからです。
私のようなものが「人事」に関して持っている知識など『白い巨塔』や『課長・島耕作』のウケウリの範囲を出ることの無い、想像の世界に限定されたものかもしれません。
でも、複数の組織とお仕事をさせていただく立場ですから、私のようなものにも「人事の話」は様々な形で影響を及ぼしてきます。
のみならず、私がそれほど直接の利害関係にかかわる者ではないということで安心されるのか、組織に属する方々から内部事情を聞かされることがしばしばあります。
往々にして、「人事の話」は「まったくやんなっちゃうよね、サラリーマンってさ」とやや自虐的に切り上げられます。
それは、「人事」という俗世間的なものに左右されるわが身を憂うからでしょうか。
しかし、どちらかと言えば「人事」それ自体をネガティブに捉えている姿勢を明らかにしているにも関わらず、「人事の話」をする時に瞳をキラキラ(あるいはギラギラ、ときにはランランと?!)と輝かせる方が多いのも事実です。
実は、他人事として聞いている私からしても、○○課長が○○専務サイドに寝返ったとか、そういった生々しい「裏事情」はスリリングで興味深かったりします。
「人事の話」をする自らを卑下するように語りながらその実、「この人は心から<人事>が楽しいのではないだろうか?」と思わせるような瞬間に出くわすこともあります。
思えば、洋の東西を問わず不朽の名作とされる文学の古典は「人事」を何らかの形で扱うものが多いのも事実です。
『源氏物語』だって艶やかな王朝ロマンスの影で熾烈な権力闘争がうごめいています。『ハムレット』だって、ただネクラな青年が悶々としているだけのお話なのではなく、ノルウェーという強国が目前に迫りつつある危機的状況におかれたデンマークの主導権を握るのは誰か?!という政治闘争を描いている側面もあります。
同じくシェイクスピアの手による『ジュリウス・シーザー』に到っては「人事闘争」そのものです。
試しに現代の企業社会に「カエサル」をあてはめてみましょう。
カエサルという天才的なサラリーマンは、会社に拡大と繁栄をもたらしたことからトップに上りつめ、絶対的な権力を握っています。
ところが、そのカエサルというワンマン社長を影に日向に支えてきたブルータス専務の耳元で、カシアス常務が悪魔の誘惑をささやきます。
「あなたにはリーダーの資質があるのに、今までいいようにカエサルに利用されてきた。このまま一生、太鼓持ちで終わるのか?それとも一国一城の主になる気があるのか?覚悟があるなら我々が助けてやろうぞ」と。
そして、緊迫の取締役会でCEOの追放劇。
ところが、長きに渡るカエサルCEOの支配と縁故入社によって、もはや創業者一族と化した株主社員ネットワークが巻き返しをはかる。
急遽開催された株主総会で、「CEO解任はクーデターである」と糾弾し、一般投資家の同情がカエサルの甥、アントニウス人事部長に集まった結果、最終的にはブルータス専務とカシアス常務の一味はローマ社から追放されるどころか、背任の罪に問われてしまう……。これって「悲劇」ならぬ「人事劇」ですよね。
「人事」には、何世紀にも渡って語り継がれ、人を惹きつけるほどの魅力があるのでしょう。
組織・システムを動かす力学という意味では、「人事」は広い意味で「政治」です。
「政治」という観点から見れば、「人事」は文学に限らず様々な分野で主要なテーマであり続けています。
「人」と「事」という字が現しているとおり、「人事」には「ヒト」の本質があるのかもしれません。
ギリシャの哲学者、アリストテレスも「人間」は「zoon politikon」=「政治的動物」だと定義しました。
アリストテレスによると、人間は、何が正しくて正しくないのかを判断できる唯一の動物なのだそうです。
つまり正義がわかる動物ということですね。
そして、政治的なつながり、関係は「正義」を基本に作られるそうです。
ではどうして人間には「正義」の感覚があるかというと、それは「言語」があるからだそうです。
わかりやすくいうと、私たち人間は「話す」ことができるから、何が良いことで、何が悪いことかの「価値判断」ができる。
だから「正義」の感覚がある。そして「正義」は「政治」によってこそ達成できる、ということです。
このアリストテレスの「政治的人間論」を「人事の話」に置き換えてみましょう。
あなたは、「不当」な評価を受けて、不当な配置換えをされたとします。
それは自分にとって「正義」が行われなかったことになります。
あなたは、正しい評価をきちんと受けるために、様々な作戦を練ります。
人事部長を動かすために、部長に近い人たちに「話」をしに行きます。
あなたは自分の「言葉」で徐々に関係者に影響を与えてゆきます。
そしてついには部長の意見をかえることに成功しました。
あなたはあなたにとっての「正義」を達成したことになります。
「人事」こそ「政治」であり、「政治的存在」である「人間」の本質であり、そしてその目的は(アリストテレスによれば)「正義」の達成にある、ということになります。
たしかに、ひとたび「人事」が牙をむくと、単身赴任という形で家族が離れ離れになったり、やりたくもない仕事をさせられたり、もだえ苦しむ思いをさせられることも多々あります。
「人事」は「人生」を左右します。
でも、長い歴史の中で人は例外なく「人事」、あるいは「政治」という営みと向き合い続けてきたということ、ここに「人間の本質」があるのだという事実に対して腹をくくってみると、少し見方が変わるような気がするのです。
給湯室やトイレでの噂話や、ついくさくさしてしまうような上司の小言や、同僚の他愛も無い言動に一喜一憂してしまう自分へ自己嫌悪が生むストレスも、悠久の時の流れに身をおいて捉えてみると、なんだかどうでもいいことのように思えてくるかもしれません。
不安とストレスの源にしてしまうよりも「<人事>もそう捨てたものでもないかもしれないな」と常日頃から思っていれば、うまくいかないことがあっても「それが人事、それが人間。会社が評価しなくても、家族や友人が評価してくれているさ」と割り切りやすくなるのではないでしょうか。
「人事」をやるときは真正面からやる。
それでも負けた時は「ジンジン人事〜♪」と鼻歌でかわしてやるくらいが丁度いいのかもしれません。

