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  「スタイルがいい」のと「Styleがある」のはどう違う?

スタイル、ってなんでしょう。
辞書にのっている和訳は「様式」。
それは時とともに移り変わるもの。
たとえば、「ロココ様式」とか、「ゴシック様式」とか。
そこから、数十年から百年もつづくようなひとつの「時代」のスタイルを表すだけでなく、もっと短い期間でうつりゆくもの、それこそシーズンごとにかわってゆく「ファッション」にも使われるようになりました。
たとえば、海外のファッション誌の「コレクション評」を読むと、
This season’s Givenchy’s style is classical…という風に「Style」が用いられます。
「今シーズンのジヴァンシィの<スタイル>は<クラシック>なもので…」ということですね。
こういう評論家のコメントが積み重なり、日本の雑誌で「今年のパリ・コレ春・夏コレクションは<クラシック・スタイル>が旬!」といった見出しになってゆく。
この場合の「スタイル」というコトバは、常に変化するものを表します。
でも、もしかするとStyleって実は「不変」なものを指すのでは?と考えるようになったんです。

「スタイルがいい」は、単純に体型のことを言いますよね。
では「あのひとはスタイルのある人よね」と言う場合はいかがでしょう?
こちらは、よりStyleという英語の単語がもつ本来の意味に近づきます。
英語圏で「ひと」に関係して「Style」を使うときは、その「ヒト」固有の「やり方」「生き方」「在り方」を意味します。
たとえばGrace Kelly’s Style, Audrey’s Style, Marylin’s Styleと並べた場合。
もちろん、モナコ公妃グレース・ケリー、オードリー・ヘップバーン、そしてマリリン・モンローといったハリウッド女優の「スタイル」のこと。
この三人を並べると、「Style スタイル」という言葉本来の意味がより際だつように思います。
 
今、「花を愛したモナコ公妃 グレース・ケリー展」が日本橋三越で開催されています(順次全国を回るとのこと)。
母がグレース・ケリーの大ファンなので、いち早く足を運んだようですが「公妃のこれまで知ることのできなかった内面に触れられた」と感激していました。
昨年はオードリー・ヘップバーン展が開かれました。
私も行きましたが、会場に足を踏み入れただけで、そこは「オードリー」の世界でした。

こんなエピソードがあります。
彼女の魅力に心酔していたデザイナーのジヴァンシィ氏が、オードリーのためだけの香水を作って彼女に捧げました。
その香りがあまりにも素敵だったので、一般向けに売り出してもいいか、とジヴァンシィに聞かれたオードリーが「interdit!」、つまり「ダメ!厳禁よ!」と答えたことから、ジヴァンシィの名作「interdit」ができたそうです。
展覧会の会場は、それまで他人が足を踏み入れることを「interdit!」=禁じられていた、オードリーだけが知っている秘密の世界のようでした。

驚いたのが、展示されているオートクチュールのドレスから、革製のバッグ、そしてフェラガモなどの靴にいたるまで、どれもがとことんまで「使い込まれている」ことでした。もちろん「使い古されている」ことはありません、きちんと手入れされているのでしょう、なるべく長持ちするように気を使って身につけていた、持ち主の「モノ」に対する愛情が感じられました。
それでも、バッグは皮のエナメル部分が所々はげているくらい「使い込まれ」、革靴の中敷きもつるつると光沢が出るくらいに「履き込まれ」ていました。
 
今手元にある「グレース・ケリー展」のチラシに、公妃が愛用していた「ケリーバッグ」の写真があります。
底の部分や、角の皮の色がはげていて、常に持ち歩いていたことがわかります。
表面の光沢は、長年使い込んだことによって出たものでしょう。
たぶん使う度に乾いた柔らかい布で手入れをされていたはずです。
興味深いのは、色の落ち方も、光沢も、すばらしい味わいをこのバッグに与え、まさに世界にたった一つしかない「ケリー・バッグ」を作り出していることです。
「グレース・ケリー・スタイル」。
それが何故「グレース・ケリー」らしさ、つまり「彼女のスタイル」なのかは、このバッグを一目見れば、一瞬でわかること。
よけいな説明は一切いらないのです。
それこそが「Style スタイル」なのではないでしょうか?
 
アメリカの教育では「Essay エッセイ」をたくさん書かせますが、そこでは何よりも
「Style」=「文体」が大事だと教わります。
一方で、日本の学校では自分の「気持ち」をどれだけ情感豊かに書けるかどうかが大事だと教わります。
中学三年生の時にアメリカに引っ越した私は、日本の「作文」の延長のように、ある「出来事」を簡単に説明し、そのときの自分の「気持ち」をえんえんと書いたものを提出したら、英語の先生に呼び出されました。
先生に「あなたが何故この<キモチ>になったのかがわからないわ」と言われました。
そこで私は反論しました。
「こんなに長く自分の<キモチ>を説明してるじゃないですか」
すると先生は「確かに長く書かれている。でもそれはあなたが一方的に自分の主張をしているだけ。それでは読者は納得できないわ。<自己主張>と<表現すること>は違うのよ。
他人に伝わらなければ<表現>とは呼べないの」と言いました。

あのとき彼女が言った「二つの言葉」を今でもよく覚えています。
“Not convincing.”
Convince とは、誰かを納得させる、説得する、確信させる、という意味です。
これは私の推測ですが、異なる文化、人種、階級といったバックグラウンドを持つ移民たちがひとつの社会を作るアメリカだからこそ「私はこう思う!」と主張しても、「なぜ?どうして?」を「納得」させられないとコミュニケーションが取れない。
だからこそ「他人を納得=convinceさせる方法論」が大事にされるようになったのではないでしょうか。
そんなアメリカだからこそ、世界のどの国の人でも感情移入できる文学、音楽、そして「ハリウッド」という映画産業を創り出すことができたのかもしれません。

「あ・うん」の呼吸が通じる日本文化の中で育った私は、徹底的に「方法論」と「構造」によって他人を「納得させる」ことをアメリカで仕込まれました。
それはどういうものでしょう。
まず、「形容詞」をなるべく使わないこと。
たとえば一輪の「バラ」が「美しい」ことを伝えたい場合、「キレイで、美しくて、素敵で」と形容詞をいくら積み重ねても、読者には何も伝わらない。
ではどうやって伝えるかというと、それは「具体的な描写」。
それが読者を説得する「証拠」になる。
そして「文体=Style」と全体の「構造=composition」が大事。
つまり「起承転結」という物語のルールがまずあって、センテンスを切る場所、動詞の配置などを考えて「スタイルのある」文章を書く。
そうすることによってゴテゴテと「形容詞」で着飾らなくても、文章の中から自然に「言いたいこと」が浮かび上がり、すんなり読者に受け入れられる、それが「よい文章」だ、と教わりました。
つまり、それは「文体=Style」がある、ということなんです。

文学で使われる「文体=スタイル」という考え方には、グレース・ケリーやオードリー・ヘプバーンの「スタイル」と共通するものがあるような気がしませんか?
たぶんお二人とも若い時には何が自分に合った「スタイル」なのか試行錯誤したことでしょう。
その中で、自分に一番しっくりくるものは「これ!」というものをちょっとずつ見つけていった。
それがケリー・バッグとなり、サブリナ・パンツとなり、いつしか世界中の女性に愛される「定番」の「スタイル」となっていった。
もともと、たった一人の女性の「個性」だったもの、それは「本当にいいもの」として価値を認められ、普遍的になる。
私たち女性は、手足の長さといった身体的なことにこだわって、「自分はスタイルが悪いし…」と自信を無くしてしまいがちです。
どんなにキレイな人だってどこかしら欠点を気にするものです。
オードリーですら自分の手が大きいことにコンプレックスを感じ、いつも手袋をはめていたそうです。
でもそれが「上品」な「オードリー・スタイル」として本人の知らないところで定着する、そんなことだってあるんです。
「自分」という「作品」と常に真摯に向き合い、自分で自分に「納得」=「convinced」が行くのかどうか、という尺度さえ忘れなければ、誰にだって「スタイルの有る」女性になれるチャンスがあるはずです。


 

posted: blooming date: April 26, 2007 2:18 PM|