マリリン・モンローが、夜寝るときは何を着ているのですか?と聞かれ「シャネルの五番よ」と答えたのは有名な話ですよね。
さすがマリリン・モンロー!という感じの見事な切り返しですが、最近「香り」についてちょっと勉強してみたところ、この答えにはもっと深い意味合いがあるのかもしれないと感じています。
「ヤコブソン器官」という言葉を聞いたことがありますか?
『匂いの記憶―知られざる欲望の起爆装置: ヤコブソン器官』(旦敬介訳、光文社)という本があります。
ライアル・ワトソンという南アフリカ生まれの動物学・植物学・人類学を極めた学者が書いた本です。
南アフリカの養老孟司さんみたいな方と思っていただければそんなにずれていないと思います。
人間には胎児のときにしか見られず、あとは退化してしまって機能しないといわれる「フェロモン」などを感知するのがヤコブソン器官だ、というのがワトソン氏の議論。
蛇などの爬虫類がちろちろと舌を出しますが、あれこそヤコブソン器官の進化した形で、「フェロモン」などを探っているんだそうです。
では「フェロモン」の感知と「普通のにおい」の感知はどう違うのでしょうか?
それはひとえに「意識しているか、いないか」につきるようです。
つまり、鼻で「嗅いだ」匂いは、大脳新皮質に伝わり「良い匂い」か「悪い匂い」か、といった判断が下されます。
これに対してヤコブソン器官は、直接「視床下部」に伝わるので、何かを「嗅いだ」という意識がないまま、直接「ホルモン」などに影響を与え、ひいては行動を起こさせるのだそうです。(注1)
野生動物の雌は、雄を引き寄せるために特別な「匂い」を発散するといいます。
それは雄だって同じです。
マウンテンゴリラは、発情するときに強烈な匂いを発散して雌をおびきよせるそうです。
ゴリラは、雌をおびきよせるだけでなく、敵を威嚇するためにも匂いを使います。
つまり強烈にくっさ〜い匂いを発散して敵を対峙するんですね。便利なもんです。
『カーマ・スートラ』というインドにおける性の秘伝を伝えた映画が世界的にヒットしたことがありますが、ストーリーの中に「媚薬」が出てきます。
つまり、「惚れ薬」です。
好きな男性に飲ませればその人は自分に夢中になる、というもの。
洋の東西を問わず、人間はこの「媚薬」を求めて多大な犠牲を払ってきました。
「香り」は「媚薬」にとても大きな比重を占めていて、むしろ「媚香」といってもいいくらいです。
「マッコウ鯨の腸内結石」とも言われている龍涎香(りゅうぜんこう、洋名はアンバーグリス)を求めて数多くの船乗りが命を落としました。
麝香(じゃこう、ムスク)のために何万匹というジャコウジカが殺されました。
龍涎香は耳慣れませんが、「ムスク」はよくご存じですよね?
これは元々は、雄のジャコウジカの下腹部にある袋の中のゼリー状の分泌物を乾かすことによって作られていました。
でもだいぶ前に人工的に同じ香りを合成することに成功したために、今では天然の「ムスク」が使われることはありません。
実際に、ジャコウジカの雄は雌を引き寄せるためにこの「ムスク」の香りを発散するそうです。
「ムスク」ってどんな香り?と言いますと、もしかすると現代の、特に若い世代の日本人がやや苦手としている香りかもしれません、もっとも「ムスク」単体で嗅いだ場合の話ですが。
重たく甘くて、ねっとりとまとわりつくような香り。
香水の原材料のなかで数少ない「動物」由来のにおい。
「ムスク・アブソリュート」という香りの成分だけを抽出したエキスの匂いをかぐと、ただの「動物のにおい」でしかないそうです。
言ってみればあんまりいい匂いではないんですね。
また龍涎香も、「強烈なワキガ」のような匂いだそうです。
文明史上もっとも貴重だとされるふたつの香りが、「動物くさい」とはこれはどういうことでしょうか?
中国の医学書は、このムスクを「強壮剤」として用いると指示していたり、「アラビアン・ナイト」などの文献では「催淫剤」として用いられていたことが記されているそうです。
また、ここ日本でも動悸・息切れに効く薬の原料とされたり、惚れ薬としての効能も知られていたそうです。
つまり、「動物くさい」匂いである「ムスク」は限りなく「媚薬」に近い魔法の香りとして重宝がられてきたわけです。
このムスク、それ自体では決して「いい匂い」とは言えないのですが、フローラルやフルーティな香りと調合されることによって、なんとも言えない贅沢で甘美な香りに生まれかわるのです。
ほんの少しの量の違いによってその香りが台無しにもなれば、世にもすばらしい香りにもなるので、とても扱いが難しい香料とされてきました。
香水には「トップノート」、「ミドルノート」、「ラストノート」という順序で、香る「香り」がちがうということは、ファッションや美容に敏感な女性ならよくご存じのことと思います。
フルーティやフローラルな香りは、主に香水をつけてすぐ香る「トップノート」。
ムスクは、一番最後まで残る、つまり「ラストノート」でその本領を発揮します。
女性が一日身にまとっていた香水の香りがゆっくりと消えてゆき、最後には寝室で身ひとつの姿となったときに香る…それが「媚薬」とされてきた「ムスク=麝香」とは…ううん、セクスィーです(笑)。そう、ここであなたはマリリン・モンローを思い出したでしょう?
Chanel No.5のラストノートは、サンダルウッド、ペチパー、そしてバニラと言われています。これらが合わさると、あの贅沢で濃厚な感じになる。
なんとなく印象として「ムスク」系の香りと近いような気もしますね。
でもあの「シャネルの五番」にはどうもそれだけでは済まされない秘密の香りが潜んでいるような気がしてならない。
ちょっと調べて見ると、やはりそうでした。
シャネルナンバーファイブには、実は「シベット(霊猫香)」が少量含まれているのです 。(注2)
この「シベット」は、世界に四種類しかない「動物由来」の香料のひとつ。
「動物由来」とはつまり、すでにお話し申しあげた「龍涎香」、「麝香」と、そして「カストリウム」、さらに「シベット」。
シベットは、エチオピアなどに生息する「ジャコウネコ」と呼ばれるネコ目の哺乳類で、その性器のあたりから香料の原材料となる分泌物が抽出されます。
「ジャコウ」ネコと呼ばれるだけあって、「シベット」という香料もまた、「ムスク=麝香」ととても近い香りと効果をもつのでしょう。
つまり、ラストノートとして、何とも言えない香りが最後まで残る、、、それはもしかすると、意識ではわからない「におい」なのかもしれません。
あの「セックス・シンボル」のマリリン・モンローは、もはや香らない本当の香り、つまり「フェロモン」だけを身にまとって、その美しい体をベッドに横たわらせていたのかもしれません。
それでは私もムスクやシベットの入った香水を!と思った方にご参考までにお教えすると、比較的に手に入りやすいお値段の香水で、私が好きなものの中にもムスク系のものがありました。
たとえば「モテ系香水」として話題のジェパーリーの「ラブインテンション・ブルー」や「ジョアン.b ボーテ」、ナルシソ・ロドリゲスの「ナルシソ・ロドリゲス・フォー・ハー」、ブリトニー・スピアーズの「ブリトニー・スピアーズ・キュリアス」などです。
どれも「セクシーさ」の代名詞みたいな香水…。
その秘密は「ムスク」、さらに言えば「動物臭」にあるのかもしれません。
こういった香水を身にまとって、あなたの中の「本能」を司る器官、「ヤコブソン器官」を深い眠りからゆり起こしてみてはいかが?
注1 鈴木隆『匂いのエロティシズム』集英社新書
注2 ジャコウネコから「シベット」を得る手段が残酷だとして動物愛護団体から批判がありましたが、シャネル社は、動物愛護の精神にのっとり、現在は合成された「シベット」を使用しているということです。

